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コラム Archive

'11 06月19日 (日) 15時23分 : 木を育てる会社

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八戸市内のとある本屋さん兼文房具屋さんは、中心街にお店を出していて、美しい花をつける一本の木を育てている。本屋さん兼文房具屋さんだから「八戸市民により良い本や文房具を提供する」ことが事業の核だけど、さりげなく僕にとっては「中心街に一本の木を育てている」ことも同じくらい大事だったりする。

木を育てる会社、なんて、すてきだと思う。

'11 06月04日 (土) 14時28分 : 骨太なのは良いことだ

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じいちゃんが死んで火葬にした時、イトコのおばあちゃんたちが「いやぁ、骨が太い! 最近の火葬は火が強いから、薬漬けで骨がもろくなってしまった人はスカスカになって軽くなっちゃうけど、じいちゃんの骨は太くて重い。立派だ、立派だ」と言っていた。薬漬け云々は正直マユツバだと思うけど、なんとなく心に残る話だった。

それ以来、骨太になりたいと思って生きている。

掘り出された大木の太く逞しい根を見ると、じいちゃんを思い出す。

'11 06月02日 (木) 18時54分 : 鉄壁の色あい

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初夏のこの季節、土の深い黒と新緑の緑の対比は、鉄壁と言いたくなるほどの安定感があるなぁ、と。この色の取り合わせを見せつけられると、もはや土と木に囲まれて暮らす一人のニンゲンとして、もはや服従するしかないような感じになるんです。

'11 05月26日 (木) 14時01分 : 忙しい上に眠いなんて

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忙しい上に眠い時って、絶望的ですよね...そんな時だからこそ、忙しくなくて風がさわやかな景色の写真でも見て...うーん、やっぱり忙しいし眠い!(涙)

'11 05月24日 (火) 10時30分 : 存在力

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八戸ぐらいに田舎になると、1時間に1回くらいの割合で「町が本当に無音になる」時があります。その瞬間、普段は人が牛耳っていた街並みが急に意識を持ち始めるような、人VSモノで人が常勝していた一方的な試合が唐突に逆転するような、根底が覆されるような感覚があります。

「ただそこにあるだけの力」とでも呼びたくなるような、存在感ならぬ「存在力」のようなものが、古い街並みから吹き出してくる瞬間が、あるのです。

'11 05月23日 (月) 14時11分 : 今日も休む日

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うみねこさんたちは、お腹いっぱいになったら休むものです。子育ての時こそスゴイ頑張りようですけど、それ以外の時はのーんびり休んでるのが、うみねこさんです。そういう意味では、なんとなくネコに似てる感じもします。気まぐれというか、自由奔放というか。

この時期、大抵のうみねこさんたちは子育てに追われますが、中にはツガイになれなかったり、なんとなく気分が乗らなかったり、若すぎたり年老いたりで「ひと夏まるまるバカンス!」みたいになっているうみねこさんたちが、案外います。

そういううみねこさん達は、例えるなら職場で一人だけ残業せずに済んだ人が申し訳なさそうに帰るような顔は一切せず、堂々と休んでいます。今日も休む日、明日も休む日。そんな彼らを眺めていると、生きる苦労が無い時ぐらい、のんびり休んでほしいものだと思うんです。

'11 05月22日 (日) 11時44分 : 困った春の話

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粗大ゴミが捨ててあるんですけど、それを上回る春らしさのおかげで穏やかな気持ちにすらなれます。こんな光景は小さな頃から町のあちこちで見てきましたから、捨てられた自転車も「環境を破壊するダメなもの」というよりも「田舎のあるあるネタ的なもの」として見てしまいます。それが一般的な良識ではよろしくない心持ちであることも分かるのですが、どうしてもそう感じてしまうのです。

田舎は都会よりも変化する力が乏しいと思います。町の建物が建て替わるスピードも遅ければ、人の変化も都会に比べればゆっくりです。この写真の自転車だって、もしかしたらあと何十年もこの場所にあるかもしれません。そしてそんな様子は、都会の人から見れば「停滞だ、だから田舎は田舎のままなんだ」と思われるかもしれません。

けれど、打ち捨てられた自転車を避けながら春の草花が咲き誇る様子を見てシアワセを感じてしまう僕なんぞは、卑しくもそんな都会の正しい人たちの助言が聞き入れられないようです。

困ったものです。

'11 05月21日 (土) 16時51分 : 気が抜けた

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仕事の合間にブログ用の写真を選んでいたんですが、この写真のあまりの穏やかさに気が抜けてしまいました。気ーが抜ーけーた(変な節回し付きで)。

'11 05月18日 (水) 17時22分 : うみねことショートケーキ

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先日、地震後にはじめて蕪島を少し見ました。うみねこさんたちは元気に飛び回っていて頼もしかったんですが、地震の影響でしょうか、トイレが地面に陥没してしまっていました。

例えるなら、イチゴのショートケーキ。トイレの建物自体がイチゴのように斜めって、地面に半分ほど沈み込んでしまっています。これではトイレは使えません。

というわけで、皆様におかれましても、蕪島に行かれる際には、事前にトイレを済ませておいてくださいね。でも、うみねこさんたちは容赦なくはばからず、自由に糞をなさるので、そちらもお気をつけあれ。

それにしてもうみねこさんたち、元気でした。すごーく、安心しました。

'11 05月17日 (火) 16時21分 : 青森は冷たい森

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冷ややかさと暖かさがせめぎ合いながら、少しずつ春は湿った土の中に染みこんでいきます。土の匂いは朗らかな生気に満ちているような、人を寄せ付けないようなカビ臭さのような、その中間のような。きっと森も迷っているのではないかと感じます、僕だって毎日服を選ぶのも苦労しながら、少しずつ体を季節に慣れさせていってますから。

森はまだ冷えが残っていながらも、その先は明るいようです。

急に話は変わりますけど、青森県の「青森」って、青い...ブルーな森というよりは、寒い森というニュアンスが近いんじゃないかと。地の底から冷え切って、青い瘴気のようなものがドライアイスの煙のように足元にまとわりつき、骨までしみてくる感じ。その冷たさを、青と表現したのではなかろうか?

...定説では、青森市近郊の小さな山「青森山」が語源だとされる青森ですが、冷たい森を静かに進んでいる時に感じる確かな寒さの現れに鑑みても、そんな「青=冷たい説」も悪くはないんじゃないかと思ったりするんです。

'11 05月15日 (日) 14時07分 : 光を貯める

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さっきまで晴れていた午後、急に雲がかかる。暗く沈む遠望、でも手前の花や若葉が自ら光り輝いているように明るく揺れている。さっきまで晴れの間に光を貯めていたのかもしれない。もしくは、僕が「もう一度光が差してくれないかな、晴れてくれないかな」とでも言うような何かしらの期待のような気持ちを花や若葉に対して持っていて、そんな感情が思い込みを生じさせて花や若葉を光って見えさせているのかもしれない。

いずれにせよ、どこかに光は貯まっている。厳しい冬は、光を貯めることが出来るほどの空洞を生き物の内部に創りだすのかもしれない。そして僕らはこの春という季節、その空洞を埋めるかのように、一生懸命に光を浴びてよろこぶ。

'11 05月14日 (土) 16時08分 : タイムスリップ・バス

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バスが気持ち良い季節は春じゃなかろうか? 夕暮れも少し白々しいぐらいにキレイだから、午後が良い。奥行き方向に細長いバスの空間はトンネルみたいで、その先の景色を見ながら揺られていると、タイムスリップしそうな気持ちになる。そんなフワフワした感じも、春ならではだ。

'11 05月12日 (木) 19時07分 : 長い時間と言葉と景色と僕

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長い時間で造り上げられた、この景色。

一言に「長い時間」と口にしても、その中にはいろんな人の人生だったり、晴天や豪雨だったり、暑さや寒さだったり、密やかに暮らす生き物だったり、それこそ様々な要素があります。関係者と表現しても良いかもしれません。

ぼくらが目にしている光景は、どんな光景であっても宇宙のはじまりからの帰結です。宇宙の年齢は137.2億年(誤差は1.2億程度)と言われていますから、すごく長い時間です。一方、僕らの人生においての「長い時間」とは、せいぜい100年行かない程度。

長い時間、と言葉で言う分にはカンタンに言えますが、その言葉が表現し得る対象は、100億年以上だったり、100年以下だったり。

この景色も、「長い時間」という言葉も、僕らニンゲンに比べると、途方も無い。言葉なんて、ニンゲンが作らなきゃ存在しないものなのに...なのに、僕らニンゲンのスケール感をあっという間に飛び越えていきます。

そんな風に、長い時間も言葉も景色も、僕はただ、眺めているしか出来ません。

'11 05月08日 (日) 13時27分 : 切り分けない風景

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いつまでもなだらかに変化していく夕暮れは、きっとその滑らかな夕闇のグラデーションがあまりに精密だから、完全な暗闇なんて無いんじゃないかと思わせます。

都会はイルミネーションの有無で昼と夜が切り分けられる感じがするけれど、田舎の夕暮れはもっと相対的で、両義的で、迷ってしまいます。夕暮れ...それと、朝焼けも。二元論的な昼と夜の間に、僕らにはどちらにも分けられない朝夕という時間帯があるんですね。

じゃあ、昼と夜という2つのグループに分けるのではなく、朝・昼・夕・夜と4つに分ければ良いじゃないかと思うけれど「じゃあ朝と昼の境目はどこ?」「昼と夕の間は?」なんて考え出すと、どこまで考えても決定的でデジタルな答えは出せません。

薄闇のなだらかさは、切り分けられない風景です。それは、僕らの論理的思考能力の限界と、あまりに強力な自然のアナログさと、切り分けないという考え方の美しさの一端のようなものを、教えてくれます。

'11 05月03日 (火) 15時49分 : 春が坂を流れていくと

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「春が坂を流れていくと、たんぽぽが咲きます。」という文章を現実にしたような景色。

坂道と春は似合うなー、春という季節自体が、冬から夏への傾きというか変化というか、そんな概念を司る季節だとすれば、坂道とも似合って当然かも。

'11 04月30日 (土) 18時24分 : 静かで不穏な春の公園

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とても静かなのに、なんだか不穏な空気が漂っている公園でした。

桜にはどこから狂乱じみたものがあるという話はよく文学なんかに出てきますけど、ちょっと分かる気がします。だからこそこの景色には、何かしら桜のせいで居心地が悪いような、ルールが1つ消されてしまったかのようなザワついたものがあるように感じます。

花曇りの4月の末、僕はなんか落ち着かず、ポケットの中の縫い目のほつれを意味もなく指先で挟んだり引っ張ったりしながら(前々から気になっていたのです)、公園を後にしたのでした。

'11 04月29日 (金) 21時25分 : 精緻な準備

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これだけ無数の枝のすべてに春の息吹をたっぷり吸い込んだ温かい水が満ちていて、葉を茂らせる日を今やと待ち構えているっていうんだから、どれだけ精緻な準備をしているんだろうなぁ自然は。

'11 04月28日 (木) 11時16分 : 風を、そっと分けて

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春は温かいので、バスの中の温度と外の温度が同じように感じます。冬は寒いので、バスの中と外は運命的な隔たりのようなものがありましたが、今はそんなものありません。

春にぽっかりと浮かんでいる巨大な空気のカタマリを、平べったくて真四角な頭をしたバスがそっと押し分けながら、海辺を走ります。風が揺れて、肘をついて窓の外を眺める僕の耳を打ちます。

'11 04月27日 (水) 14時05分 : 土が消える日

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草が生えると、土が消えます。視界から、消えます。

植物が絶えた後には、乾いた土ばかり。その上に雪が積もり、白と茶色しかない季節が出来上がる冬を越えた今、土もみずみずしく草花の成長を下から押し上げているかのように生命力にあふれています。

そんな風に、土は草花を太い腕で持ち上げながら、視界から消えていくのです。

'11 04月26日 (火) 11時15分 : 羽ばたくだけ

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うーん、まだ海のそばに行くことに、躊躇してしまうのです。地震から、僕は一度も八戸の海を見ていません。

けど、論理的な理由は無いですけど、うみねこたちは今日も凛々しくたくましく生きているんじゃないかと想像します。

彼らはただ、海風に羽ばたくだけ。僕はその潔さに惚れているようなところがあります。

'11 04月25日 (月) 11時22分 : アスファルトの季節

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戦後の高度経済成長期に爆発的成長を遂げた港町八戸においては、アスファルトの地面すらアンティークの趣きです。

雪が溶け、ぬかるみも消えたこの春の季節、しっぱね(靴のかかとからズボンに跳ね上がる泥水)の心配もなくなった僕らには、街並みや地面をのんびりと眺めながら歩ける余裕が手に入ります。そんな心持ちでアスファルトを眺めると、ゆったりと波打ちながらバスのタイヤを受け止めている道路も、妙に情感的です。

小石を抱きながら空を見上げるアスファルト、さわると少し温かいんですよ。

'11 04月24日 (日) 18時36分 : たくましさの形

地震に遭った後に見ると、今までにも増してたくましく見えるたんぽぽ。

'11 04月21日 (木) 11時28分 : 時代の曲率

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古びた看板やポスターは時代の移り変わりを目に見える形にして、楽しませてくれたり切なくさせてくれたりします。時間の移り変わりそのものは目に見えないからこそ、僕達は古いものを代理的に観察して時代が経たことを実感するのでしょう。

破れた網戸の網も、なんだか歪んだ時空みたいに見えます。古い港町・八戸では、都会よりも時代が歪んでいる気がします。

'11 04月20日 (水) 20時59分 : いつだって味方

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地震の後は平日でも祝祭日ダイヤ+通勤時間しか走れなかったけど。それでも八戸市営バスはいつだって市民の味方です。

写真を加工して切ない色合いにしてますけど、それは僕の市営バスへのポジティブな想いが込められているからです。暗く曇った昼下がりとか、北風の強い雨の日とか、歩くのが辛くて切ない時にバスに乗せてもらったうれしさが、僕をして写真に色加工せしめるのであります、ハイ。

辛い時に味方だったということは、いつまでも憶えているものです。

...あ、いつの間にか僕、市営バスの味方になってる。味方って、伝染るのかな。

'11 04月18日 (月) 15時38分 : ほっぽらかし!

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春が、ほっぽらかし!

(けど、このほっぽらかし具合がいいんだよなぁ。あ、ちなみに「ほっぽらかす」は「ほったらかす」と同じ意味合いで、東日本では割と使われる方言のようです。なんとなくですが、「ほったらかす」よりも「ほっぽらかす」のほうが、ポカンとしたノドカな感じがして好きです)

'11 04月16日 (土) 19時15分 : いつの間にか離れていく

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良い意味で、いつの間にか離れていきます。子供たちと、僕との間の距離が。

子供たちは可能性のカタマリのようだし、僕は逆に食べていくことや健康を保つことで精いっぱい。ファインダーに彼らを捉える頃には、もはや彼らの顔は僕の視界の外側のどこかを追いかけていたりして。

そう考えると、子供の頃に「とりあえず生きてりゃ何とかなる」と僕に思わせた親というのは、スゴイものだなぁと思う。自分の事で精一杯だったはずなのに、子供に希望を持たせるまで成し遂げたんだもの。

逆に言えば、それが唯一、親の世代に達した人間が可能性を広げられる生き方なのかもしれない。他者に可能性を説いて、明け渡すこと。

地震のあと、ヒビ割れた地面から、生気に満ちた春の匂いが立っている。津波が引いたおだやかな海の波間に、温かくやわらかな水しぶきが上がっている。山と海がせめぎあう港町八戸の4月、鮮やかな放物線の轍を残して、自転車は泳いでいく。

'11 04月14日 (木) 17時27分 : 間に合ったよ

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八戸は春です。僕は去年八戸に戻ってきたのですが、この春と先の地震に間に合って良かったなって心から感じてます。田舎にいて、田舎の人といっしょに地震を経験出来て、良かったなぁ。今は春、しあわせな季節です。

'11 04月13日 (水) 18時05分 : 慣れない椅子に座るなら

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地震の後、更新が途絶えてしまっていました。ご心配をおかけした方もいるかもしれません、大変申し訳ありませんでした。大きなアクシデントでしたし、かなり大きな影響を受けたには受けたんですが、最近は仕事が忙しくて更新する時間が一切無いような状況だったんです。なんというか...本当にスイマセン(汗)

地震の前から続いている仕事をすることは、なんだか不思議な気持ちがします。いろんな物事が、地震前と地震後で大きく変わったように感じたりもしますから。

例えるなら、震災後の世界は慣れない椅子のようです。けど、座り続けることで、きっと椅子と僕らの体は馴染んでくるだろうな、と思っています。

'11 03月13日 (日) 20時49分 : 八戸から、僕のことをもう少し

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自宅に電気が戻っているので、家でブログを更新することが出来ます。今の僕には、被災者という言葉はもう似合いません。

ただ、それは僕が八戸の内陸部に住んでいるからで、沿岸部では今も大きな被害からの復旧作業が急ピッチで進んでいます。僕は自衛隊でも警察官でも消防士でも無いので、海には近づくことすら出来ません。下手に素人が近づいても、きっとロクなことにならないでしょうから。

けど、実は海や浜辺の街並みがどうなっているか、見たくて仕方ないのが本音です。

何度も何度も歩き回って写真を撮って歩いた港町八戸が、津波に襲われたんです。どうなったのか、知りたくなるのは人情というもの...と思ってもらえればと思うんですが、そんな僕の願いは明らかに不適切なことは自分でも分かっているので、ガマンしています。

といっても、そもそもが「どの道路が通れるのか?」なんて情報、市内に住んでいても入ってこないので、行きようもないのですが。

市川の船溜まりは、工業地帯は、八太郎大橋は、夢の大橋は、漁港ストアは、陸奥湊は、白銀や鮫の街並みは、ウミネコ集う蕪島は、マリエントは、小舟渡は、葦毛崎は、大須賀海岸は、法師浜は、種差海岸は、白浜海岸は...どうなっているのか?

まだ僕は、自分が住んでいる街がどうなっているのかすら、分かっていません。

今はただ、力を蓄えながら、静かに暮らしています。

'11 03月12日 (土) 22時35分 : 八戸から、僕のことを少し

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八戸から、僕のことを少し話します。大きな地震がありましたが、幸い僕も、僕の家族も、僕の友人も、大きな被害はありませんでした。

僕は地震の瞬間、青森から八戸に向かう新幹線の中にいました。大きな揺れとともに緊急停止した新幹線は、やがて室内灯が暗くなり、東北を大きな地震が襲ったため停電しているという旨のアナウンスが流れました。最初は「このあたりは地震が多いしなぁ」と高を括っていましたが、マグニチュード8.8という数字を聞いて血の気が引きました。アナウンスは「新幹線の中は安全ですから、しばらくお待ちください」と言ってくれましたが、僕は正直なところ、だからこそ早く外に出たいんだと思いました。

余震が何度も来て、すっかり(新幹線に搭載されているバッテリーが切れたため)室内灯が消えて真っ暗になった車内がガタガタと揺れました。トンネルで停車していたため、携帯電話の電波はまったくつながりません。皮肉にも安全な新幹線の中で、外で何が起きているのかも全く分からないままに余震に揺らされることほど、自分の存在を卑しく思ったことはありませんでした。ただ眼を閉じて、揺られているしかありませんでしたから。

僕は何もできませんでした。

結局、新幹線から出られたのは翌日の朝7時半、17時間ほど新幹線の中で過ごした後、助けに来てくれたバスで八戸に戻ることになりました。

八戸は大きな被害を受けましたが、先ほど電気が回復しはじめるなど、少しずつ平静を取り戻そうとしています。復興は大変なものになるだろうと思うので、僕も何か協力できたらと思います。

とりいそぎ、ご報告まで。

'11 03月08日 (火) 15時33分 : 僕は何を見ているのか

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空の青だけ気になった写真でも、それ以外の色を落とすと、何か変な感じです。

僕は何を見てるんだろう? それすら分からないけど、空がキレイなことだけは確かだ。

'11 03月05日 (土) 22時52分 : 意味の水平線

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小さな女の子はまだ景色を見ても意味としてではなく「ただ、そうあるもの」といった漠然とした形でしか捉えられないかもしれないけれど、後ろで見守るお父さんには様々な意味として目に映ります。

海、港、空、雲、街並み、風、そして水平線。

意味がなくても、意味があっても、いいんですよね、きっと。ただ眺めればいいんです。地球と宇宙を分かつ水平線には、意味の有無すら受け入れる度量があるんです、きっと。

'11 03月04日 (金) 18時46分 : 空が抜けてく

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3月になって、いよいよ空が抜けてきました。春の気配です。

僕は惚けてしまっています。

'11 02月28日 (月) 12時39分 : ついていく一匹

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犬についていく、船をひっかけるアレ。仲良しだなぁオマエら、そういうの、嫌いじゃないよ。

(ちなみに、アレはボラードという名前だそうです。石原裕次郎さんが足を乗っけるためではなく、船を繋留しておくために使います)

'11 02月27日 (日) 16時00分 : 枯れ草ライフ

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枯れてんのにピン! としてる。トガッてる。やるなぁお前、枯れ草。

'11 02月23日 (水) 16時29分 : しるしをつける季節

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何かしるしが無いと分からないから、しるしをつけます。冬はすべてを覆い隠してしまうから、しるしが必要になる季節なんですね。

しるしは僕たちが世界を理解しようとする心の動きが形になったものなのだと考えると、冬の街並みにすら連帯する気持ちが生まれるように感じます。

'11 02月21日 (月) 16時43分 : まっすぐに行けない景色

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ふと背中を引き止める無意識の手のようなものを感じて、足を止めてしまう時があります。俗にいう「悪い予感」「虫の知らせ」の類のヤツで、カメラを片手にあちこち街中を歩きまわっている僕にも時々そういう瞬間があります。

目の前には何の変哲もない景色が広がっているだけだし、車や人の往来は間違いなくここがいつもの社会の営みの中にあることを教えてくれてはいるんだけど...何かが決定的に宿命的に違う。そんな感覚です。

そんな時は、じっくりと景色を眺め、耳をすませるんです。まだ形や音になっていない前兆のさきがけが、何かしらのヒントを出してくれているかもしれない。

でも、そんな瞬間はやがて消えて、だいたいは普段の街並みに戻ります。僕もやがて「悪い予感がしたんだけどなぁ」なんて具合に思いながら、そのこと自体を忘れていきます。あの瞬間、前に進むことの出来なかった景色の中に、カメラを携えた僕は歩を進めていくんですね。

まっすぐに行けない景色に出遭ってしまった時は、立ち止まると良いと思います。そういう時は、きっと誰にでも来るでしょうから。

'11 02月20日 (日) 19時15分 : 高速怖い

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怖いよー深夜の雪の高速怖いよー(だって事故ったら、この景色の中であったかい生き物は乗り合わせた人だけって事になるんですよ!)

'11 02月18日 (金) 13時40分 : 冬を往く線路

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春まで届いてるといいですねー。

'11 02月17日 (木) 17時38分 : あきらめる

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どこまでいっても同じ景色なんだったら、移動する必要なんてない。そんな風に思えてしまうのが雪深い北国なのかもしれないと思う時があります。

そんな北国の「閉じ込める力」のようなものが何ヶ月もの間続くというのは、かなりの厳しさでもありますが、一方で「あきらめても良いよ」という不思議とやさしい達観をも連れてきます。厳しさとやさしさは、ある意味で表裏一体なのかもしれないと思えます。

「あきらめる」という言葉は、「明らかにする」と「極める」が組み合わされ「真実を明らかにすれば、自然と執着心は薄れる」という考え方を語源にしているという解釈があるそうです。

あきらめるという形の知恵についてボンヤリと考える、雪の日です。

'11 02月16日 (水) 15時24分 : 調和がとれている光景と、調和がとれていない僕

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ただ端切れの木などを積み上げているだけなのに、どこかしら調和のような雰囲気が感じられるのはなぜだろう? 積む最中に「キレイに整った形に積み上げよう」と思ってなどいないにも、関わらず。

その理由はたくさんの言葉で表現できるだろうけれど、なんとなく予想するのは「積み上げてから時間が経って、雪が降って、僕ら人間が作った人工的なものから自然のものへと移行していっているから」ではないかと思うんです。小難しい言葉で申し訳ないんですが、ここに積んである木々はもはや人間の生産したものではなく、自然の一部になりつつあって、自然という調和した存在の中に溶け込みつつあるからこそ、調和を感じるのではないか? と。

あー、うまく言えない。

僕って、調和がとれてないなぁ。

'11 02月15日 (火) 13時38分 : さみしくて、ささいなこと

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別れの場面を見終わった後のさみしさ。僕がさみしいと感じていることは、世界にとってはおそらくすごーくささいなことだけど、それでもさみしいものはさみしい。

でも、そのさみしさの中に「しかたないんだ」と諦められる事が含まれていると、少しずつ血に暖かさが戻ってくるに違いないという予想を立てることも出来ます。僕が立ち会ったのは、とある組織の卒業式のようなもので、それはそれは素晴らしく、巣立ちはしかたのないものでした。

巣立つ人を見送るさみしさは、海を眺めているときのさみしさに似ています。どちらも、しかたがない。世界がそうあろうとしているだけの話。そして、巣立つ人や海の可能性に比べれば、僕の感情なんてささいなものです。

そんなささいな感情を拾い集めながら、生きていくのだろうなぁ、僕もみんなも。

'11 02月13日 (日) 15時20分 : ガソリンスタンドを讃えよ

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熱量=カロリーの逆の概念として「冷量」のようなものがあったとすると、上の写真のような人気のないガソリンスタンドにはものすごい量の「冷量」が蓄えられていることになります。それだけたくさんの冷量をいっぺんに僕が抱えたら、凍え死ぬのも容易いぐらいの冷たさが、町の中に事も無げに存在しています。

都会にいる頃は、寒さを退けるのは簡単なことでした。さらに言えば、僕たち人間は十分に発達してきたから、自然の寒さに負ける訳が無いとすら思えるようになりました。

しかし、田舎にくると、寒さの力は圧倒的で、みんなけっこう必死にならないと寒さに対抗できないぐらいのパワーバランスなんだとわかります。驕り高ぶりのようなものが消えて、マジメに寒さと向きあおうという気持ちになります。

灯油ストーブ1つで、どれだけ気持ちが安らぎ、体にぬくもりを取り戻すことが出来るか。

時代の変遷に伴い減りつつあるガソリンスタンドは、単純なサービス業ではなく、人々のあたたかい暮らしを守るための社会貢献する施設なんですね。

'11 02月12日 (土) 18時05分 : そのままでいたい

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僕の実家にしても、八戸の田舎のほうにある古い家にしても、写真みたいにスゴイ補修の仕方を実践してるところを見かけることは珍しくないけれど、それだってよくよく考えれば「そのままでいたい」という気持ちの顕れなんだって思うと、けっこう泣けるよ。

'11 02月08日 (火) 14時19分 : 薪ストーブの褒めたい点1つ

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火って暴力的ですよね。有無を言わせず体を焼きます。けど、子供の頃はどうしても惹かれました。焚き火なんて見つけようものなら、絶対に近くまで寄って、草を投げ入れたり(たいていは風に吹かれて焚き火には入りませんでしたが)煙を避けたり、パチパチという音だけで喜んだりしたものです。

それが家の中で出来るんですから、薪ストーブは本当に楽しいものです。例えば子供が手のひらをペタッと付けるんじゃないか? なんて心配はどうしても残りますが、それにも代えがたい火の存在感のようなものが、子供の将来に有益なのではないかという考えもあって。

一切仮想的なものを挟まない、木と炎と鉄が創り上げる機能。その即物性やリアリティが、薪ストーブのまず褒めたい点なんです。

'11 02月07日 (月) 15時20分 : おおらか

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僕の家は昔自営業を営んでいて、家には作業場があります。広々とした空間に、どういう風に使うのかも分からない道具が散乱したまま放置されていたりするです。

しかし、作業場で仕事をしていた祖父には、その配置が最適なんだそうです。片付けるコストと、思いついた時にすぐ使える利便性を考えると、最終的には「あんまり片付けずにおく」ぐらいが丁度いいらしいんですね。

これって、田舎に空間がふんだんにあるからできることです。都会なら、モノで埋まってしまいますからね。ある意味、土地の広さとおおらかさは何かしらつながっているような気がします。

考えてみれば、僕も随分おおらかに育てられた気がします。人様に迷惑をかけることだけはビリガリと(ビリビリと、の意)怒られましたけど、それ以外はたいてい何をやっても許されたものです。そのおかげで、僕は怒られる事による挫折感や屈折感を感じずに、案外素直にオトナになれた気がします。

ガランとした作業場を眺めながら、この広さと雑然さそのものが僕を育てたのだと、しみじみ思うのです。

'11 02月06日 (日) 00時02分 : 量る

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量り、です。重さを量るものです。

デジタルが当たり前になってしまった今となっては、なんでこんな形をしているのかすら想像しにくい形ですが、それでも何十年か前は現役でものの重さを量っていました。もはや、重さを量ったものも、この世界から消えて無くなってしまっているかもしれないけれど、まだこの機械は「重さを量るもの」であり続けています。

窓際の手の届きにくい場所に置かれてから、ものの重さを量る役目はとんと与えられなくなっているようですが、最近は誰に頼まれるでもなく、もっぱら時間や空気や雰囲気の重さを量っているようです。

どれぐらいなのかな。

'11 02月05日 (土) 13時48分 : バリアとしての庭

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庭に植える植物を選ぶことで、冬の間も緑を楽しむことができます。北国とはいえ、さすがにすべての植物が枯れ果ててしまうというわけではないんですね。

小さいころ冬の野原を歩いていると、一面くすんだ枯れ草と土と雪の野原の中、かたすみにたくましく緑をたてている雑草が根づいているのを見て、不思議に思ったものです。なぜ枯れないんだろう? って。

そういった草花は、雪のあたたかみを利用していたり(雪が保温の役割をして、地面の音頭を大きく氷点下まで下げないのです)、そもそも葉っぱの中の水分を減らして凍結対策を図っていたりするそうです。なんともはや、極限の環境にすら生きる草花の、なんと逞しくも賢いことか。

僕はそんな庭を、分厚い靴下やセーターといったあたたかい服装で眺めています。居間ではお茶が湯気を上げていて、テレビからは笑い声が聞こえてきます。

雪に生きる草花も、僕も、何重ものバリアを重ねて生きています。

'11 02月04日 (金) 14時46分 : 葉っぱ1枚の力

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命の気配が消えかける北国の冬にあっては、葉っぱ1枚だけであっても、重苦しさをそっとどこかに吹きやってくれるやさしい力を持ちます。

北国に住むと、セピア調と青空しか無くなる世界が存在することに気づきます。緑が本当に無いのです。だからこそ、葉っぱ1枚だけであっても、それだけの力を持つのでしょう。

こんな風に感じられる緑の力が、北国の夏には満ちるのですね。むせ返るほどの生命力がみなぎる夏の到来を、この葉っぱは証明しています。

'11 02月03日 (木) 13時42分 : 土と繋がる生活

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家の中に土と繋がっている場所があるというのは、スゴイなぁ。

僕らが土と繋がっているということを、思い出させてくれるから。

湿気も保ってくれるし。(急に現実的でスイマセン)

'11 02月02日 (水) 18時38分 : 炭を燃やしたら炭になる

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炭になっても、燃える。燃えたら、炭になる。

炭が燃えた後になったものは、炭か? ...燃えカスか。でも、燃えカスのことも炭っていうよなぁ。

僕は知らないことだらけだ。

'11 02月01日 (火) 18時47分 : 千年の駅

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青森県弘前市にある「千年駅」です。

僕は「千年」という地名が弘前にあることを知らずにいたので、この看板を見た時は唖然としてしまいました。たまたまその日は豪雪で、気持ちがザワついていたことも手伝って、しばらく理解ができずにポカンとてしまったんですね。

千年の駅。雪深い津軽にあっては、本当に千年の冬が続きそうな気配が漂っています。僕が死んでも、駅だけはいつまでも残っていそうな。

'11 01月31日 (月) 16時51分 : 進むトンネル(あるいは逃げるトンネル)

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トンネル、小さいころは怖かったなぁ。

道路を走っている時は「僕らは楽しい方に進んでいる」感じがするんだけど、トンネルに入ると「僕らは怖いものから逃げている」ような感じがしたっけ。

なんでだろう?

'11 01月30日 (日) 12時09分 : 夢で泣いた日

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夢でしこたま泣いた日に写真なんぞを現像したりすると、こんな写真が出来てしまうのです。

'11 01月29日 (土) 13時53分 : フロントグラス、あぶらとり紙、水没する古代都市

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北国八戸では、寒い日に高速道路などに乗るとフロントグラスが凍りついて白くなってしまうので、ウォッシャー液が必要不可欠です。しかし、そのウォッシャー液も夜中に凍りついてしまうので、不凍液入りのウォッシャー液を入れておかなくてはいけません。細かく白く、まるで粉でも撒いたようにくぐもったフロントグラスにウォッシャー液をかけると、ジワリとにじんで氷は水玉へと変化していき、スッキリとした視界が戻ってきます。例えるなら、あぶらとり紙で肌を拭くと皮膚の油で透明になるのに似ています。

一方、少しあたたかい日などには、フロントガラスは写真のような美しい水玉に覆われます。雪が降っていなくても、車が巻き上げる雪がフロントガラスで溶け、かわいらしい水玉になるんですね。

世界を覆う白い雪が、すべて一瞬にして溶けて水になったら、きっと町は一瞬だけ、滅んで水没した古代都市のようになるのだろうな、と想像します。

雪国は、言わば水の中で冬を過ごすのです。

'11 01月28日 (金) 13時52分 : 雪道のフェティッシュ

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ここ数日は晴れ間も多く、雪も軽く積もる程度。道行く人達の足取りも軽くなってきています(油断するとコケますけども)。

せっかく雪道を往くなら、雪の踏み方も楽しくできます。雪を踏むことは、破壊行為みたいなものです。案外ストレス解消になるんですよ。

写真の人は、かかとから落とし気味の足裏で、たっぷりの雪をムギュッと踏んで懲らしめようとしています。ギュギュッと雪が圧され擦れ、何回かに別れて足裏からモモの辺りまで雪の感触が伝わってくるのを味わう。これはもはや、フェティッシュと言ってもいいかもしれないぐらい気持ち良い行為かもしれません。

寒い冬に閉じ込められる受身の姿勢と、雪を踏んで潰す攻めの姿勢。雪道を往く子供たちは、きっと本能的に感じているんじゃないかなーって思うんですが、どうでしょうかね?

'11 01月27日 (木) 15時18分 : 温かいのに裸んぼ

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こんなに明るくてこんなに温かいのに、裸んぼ。そう考えると電球って、値段の安さやシンプルな構造以上に、憧れることができる存在かもしれない。「電球のように生きたい」とすら言えるかもしれない。

大げさですけどね。

'11 01月26日 (水) 17時05分 : 矛盾をひらく鍵

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別に卑下するわけでもバカにするわけでもないんですが...この鍵、きっと簡単に壊せると思うんです。壊すのに手間や時間がかかったり音が出たりするので、多少の防犯効果はあると思うんですけども、個人情報だ何だと言っている昨今において、これほど無力な鍵はありませんよね。

...とはいえ。あってもなくてもどうでもいい鍵が現役だっていうのは、単純に「犯罪率が低い田舎だから大丈夫なのよ」という意味で社会に余裕があるのみならず、文化的にも余裕があるように感じさせるんですよね。贅沢感というか、生活の中の「のりしろ」感、というか。

「鍵を付けなきゃいけない」という仮想的で社会的な要請と、「鍵なんていらないんじゃない?」というリアルで個人的な実感との間には矛盾のようなものがあるけれど、それを突き抜けていくオシャレさのようなものが、この鍵からは感じられるんですね。

'11 01月25日 (火) 10時40分 : やかん、デザインを問う、背徳感

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ストーブの上のやかんの優れたところ。

  1. いつも温かいお湯を飲める
  2. 加湿
  3. カタカタ鳴って楽しい
  4. 見ただけで機能がわかるかわいらしさ
  5. 金物ってキレイ
  6. 水が入ってる時の程よい重さと、取っ手を持った時の収まりの良さ
  7. 水をヒタヒタに入れた時、注ぎ口から見える水面のヒヤヒヤ感
  8. ストーブに置く時に「注ぎ口をどっちに向けるか?」とデザインを問われるところ
  9. ストーブの上の厚いところに水をこぼして水滴が踊るのを楽しむ背徳感
  10. 子供の頃からあったから、懐かしい

...結局のところ、僕はやかんが好きだということだけは伝わったかと思います、ハイ(汗)

'11 01月24日 (月) 14時38分 : 湿り気に宿るもの

北国の窓は、冬の間乾くことがありません。人が家の中にいて暖房を炊いている以上、確実に窓は湿り続けます。雫が落ち、景色は滲んでいます。

都会の感覚だと、家の一角が常に湿っているというのは、問題アリなんだと思うんですけどね。田舎の感覚だと、全然問題ありません。それが普通なんですから。

湿っているのは、人が中にいるからです。僕らの体が湿っている以上、家が湿るのは当たり前なんですね。目鼻を潤し、皮膚を柔らかく保ち、代謝の礎となる水は、さらに体から出た後も、僕たちの暮らしの空間を潤してくれます。

北国の冬は、夏にも増して、湿り気の大切さやあったかさのようなものを教えてくれます。濡れた窓は、一種の命の証明のようなものに見えるんです。

'11 01月23日 (日) 14時23分 : 歩くな

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標準語での「どこを歩いてきたの?」という質問は、質問を投げかけられる人が「どんな場所を歩いてきたのか?」を質問しています。もしかしたら、靴が汚れていたり、雨にぬれていたり、予定よりも随分遅くなったりしたのかもしれませんね。「どんな過酷な場所を歩いてきたの?」「どんな経路を歩いたの?」といった意味合いが、質問には含まれます。

しかし、八戸弁での「どご歩いでらったんで?(どこを歩いてきたの?)」という質問は、標準語の意味合いとは全く違う質問になってしまいます。その意味は「どこをほっつき歩いていたのか?」。無駄で怪しげな動きをしているのであろう人に対して、興味半分叱り半分で放つ質問が「どご歩いでらったんで?」なのですね。

つまり、八戸弁での「歩く」は、2つの意味があるのです。

  1. 標準語と同じ「Walk」と同義の意味。
  2. 標準語の「ほっつき歩く」と同義の「ふらふらと動く」「無駄や遊びを含んだ行動をする」といった意味。

だから、例えば犬に対して「歩ぐな!(大人しくしなさい)」と命令する飼い主さんもいます。八戸弁のニュアンスを分からない人には「うわ、怖い飼い主さんだなぁ」と感じられるかもしれませんが、言っている事自体は特に変でも何でも無いのです。

あ、でも、港町八戸の四季は「歩く」のにはうってつけですよ、もちろん。

'11 01月21日 (金) 14時38分 : 雪と灯り(僕らの心のシンプルさについて)

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雪と灯り。雪灯りも良いですが、灯りは灯りでとても大事です。街灯が貴重な田舎の北国においては、灯りがついているだけで夜道の不安が何十分の一にも軽減されます。ひとつの光を目指す間だけは、闇を遠ざけることが出来ます。

そんな風に心強い街灯も、昼間に見上げてみると随分と貧相で不出来にすら見えるんですね。写真の街灯などは、電球1つが丸裸、カバーすらありません。単純で、シンプル。

けど、そのシンプルさ、単純さ、貧相さ、不出来さは、僕らが不安なまま夜道を往く時の心の有り様そのものではないかと思うのです。光があってうれしい、ただそれだけのことです。心はきっと、裸電球のように、僕らが思うよりも分かりやすく出来るのではないか? と、思えるのです。

'11 01月20日 (木) 11時35分 : 生きられるもので生きる時代

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特に贅沢なんてしなくても、とりあえず寒さが凌げれば生きていける...なんて考えは、僕を含む若い世代にはなかなか理解しがたいものがあります。寒さを凌ぐのではなく「あったかく暮らしたい」と思うし、とりあえず生きていくのではなく「うれしく楽しく暮らしたい」と思うのが、きっと僕らの世代の常です。

けど、日本では田舎に属する八戸という町では、街中に「生きられるもので生きる」という風情が色濃く残っていて、常に僕らの世代にある種の問題というか、提案のようなものを訴えかけているような気がします。生きるコストは、どこまでも下げられる。お前が生きるためのコストは、本当にお前の価値に見合うものか、と。

古く錆びた家屋、汚れた街並み。それは、見た目の美しさや切なさを超えて、生き方のレベルまでコミットしてくるものです。それは間違いなく田舎の文化だし、田舎に住んでいるからこそ深く理解できる人間の深いところの問題なのではないかとすら思うのです。

生きられるもので生きていけば良いというテーゼと、より良く暮らしたいという欲求。そんな2つの大きくズレた断層の間から、古く寂れた港町八戸の味が滲み出ているような気がします。

'11 01月18日 (火) 17時08分 : 水を出す火

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木材は燃える時に水分を出すので、エアコンよりも部屋の湿度を保てます。灯油ストーブなんかも一緒らしいですね、何かを燃やすと、水が出る。

エアコンにしても蓄熱暖房にしても、煙を出さずに熱量だけを放出する近代の暖房は、極めてシンプルかつ便利ではありますが、水が出ません。科学力があれば水分ぐらい何とかなりそうなものですけど、出来ないんですねぇ。不思議なものです。

火から水が出る。科学的な色眼鏡でモノを見ることが当たり前になった僕たちには、一件不思議で不条理な表現にすら思えます。けど、ストーブの中で燃える木という現実の光景を見ていると、それは否応なしに受け入れざるを得ない世界の成り立ちとして、科学も理性も越えてスッと心のなかに入ってくるような気がします。

'11 01月14日 (金) 10時20分 : 雪のおなかを見上げる場所

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雪のおなかを見上げられる場所...それは車です。フロントガラスに積もった雪を見上げると、普段は見れない雪の裏側=おなかを見ることが出来ます。普段は降り積もった雪の表面しか見られませんけど、車の中からなら裏側を見ることができるんですね。

...あ、別にそこまでうれしいって訳ではないです(笑) とはいえ、手を伸ばせば触れられる場所に透明な板一枚に隔てられた雪が見えるというのは、不思議な気分です。それに、ちょっとした優越感もあります。「雪は冷たいかもしれないけれど、自分は温かい場所にいるんだぞ」と。

加えて、目を凝らすと、雪の結晶が見えます。「キレイだね」と口に出して言えば、少しは和みます。

雪のおなかは、やわらかそうです。

'11 01月11日 (火) 17時17分 : 人も車も

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だーくったらユギふてらだらクルマッコもヒトッコもチョロチョロどビグめいであるがねばねもだもな。

(だってねぇ、こんなに雪が降ってるのなら、車だろうが人だろうがチョロチョロと怯えながら道を行かなきゃ仕方がないんだもんね。)

'11 01月10日 (月) 17時35分 : 寒さが堪える日々、マイナス1個のリンゴ、そして春

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ここのところの八戸は日中最高気温もマイナスが当たり前の日々で、寒さが堪えます。けれど、北国は暖房がやたらに強いのと、そもそもみんな寒さに慣れている(しっかりと着こむ、外に出る時間を短く切り分ける、小物の防寒具を常備する、温かいものを飲む、など)ため、暮らしていく分にはなんとかなるのです。

マイナスというのは、そもそもが「0より低い」という一種異常な領域を示す意味合いがあるように思います。当たり前の世界では、数は0から1、2とプラスに向かって増えていくものです。小学校の算数でマイナスを扱わないのは、マイナスという概念自体が一種の幻想として存在しているからではないかと思います。1個のリンゴは手に取れるけれど、マイナス1個のリンゴは手に取れませんもんね。

一日中マイナスの気温が続く八戸という北国は、言わば通常の世界とはかけ離れた異界のような雰囲気があります。窓は水滴に濡れ、足は氷と雪に取られ、肌は深く服の下に隠されます。ひたすら体を暖めて静かに暮らすことが要求される、暗く細いトンネルのような雰囲気。そんな世界に通奏低音のように響いているマイナスの気温...言わば「マイナス性」のようなものは、強く強く僕らを制限しつつも、逆に激しくプラスを望ませもするのです。

春はまだ遠い八戸です。

'11 01月07日 (金) 15時14分 : 動かない、動かさない

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あたたかい車の中、ぼんやりと広がる湿気に包まれていると、妙に眠くなります。でも、窓の外は寒風吹きすさぶ冬の八戸。僕らには黙って5分と立っていられない風雪なのに、街並みは何も物言わずじっくりと冬空を見上げています。

木箱や機材といったモノたちは、秋頃に置かれたままの配置です。冬は寒いので、外にあるものを動かさなくなるんですね。だから、冬に目にする街並みは「秋からそのままタイムスリップしてきたもの」と言っても過言ではないのです。

何も動かず、動かさず、じっと過ごす北国の冬。ただ止まり続けること。それは近代的な価値観からすると、ややもすれば不道徳とすら言われるかもしれません。しかし、人間と寒さが共存しようとする時、「動かない、動かさない」という選択肢は案外うまく動作しているようにも思いますし、それ自体が一種の風情として機能しているようにすら感じるんです。

'11 01月06日 (木) 15時06分 : 貯蔵する季節

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民俗学の祖のひとりと言われる折口信夫(おりくちしのぶ)は、冬(ふゆ)を「増ゆ」としました。厳しい寒さに人はおろか動物も植物も星々も皆身を縮めて眼を閉じて過ごす冬でありながら、大地の奥底では春夏に芽吹くエネルギーが貯蔵されている...そんな様子を「増ゆ」と表現したのではないか、というのですね。

港町八戸は漁業と工業が発達していて、海周辺の土地はあらかたアスファルトで舗装され、トラックの往来を支えています。したがって、土はあまり見えません。

しかし、そんな湾岸を走りながら、かすかに大地が膨らむような揺れるような、何かしら物語的な展開を見せながらエネルギーを貯蔵している様子は、感じられなくもないのです。

'11 01月05日 (水) 16時15分 : 心がよく映える日

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静かーなお正月。煙もくもく。

一年が始まったばかりで振り返るものが無いからこそ、何も無い景色からこそ、心がよく映えます。

'11 01月02日 (日) 16時32分 : 抜けた正月

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私、相変わらずアチコチばたばたとしてます故、お写真のみの更新でご容赦下さい。

本日の写真は、去年の今日・1月2日の写真です。今年は若干雲が多かった夕暮れでしたが、去年はスッキリと大空の上の方まで見渡せていたんですね。北国の空の透明度の高さは、別に僕が何をしたわけでもないんですが、ちょっと誇らしかったりします。

この空を見上げながら、しんとした町、時々聞こえる自動車の音、犬の鳴き声、雪のきしむ音...そんな正月の音を聞いていると、面倒なことはひとまず隅に追いやって「新しい年が来た!」と無理矢理リセットしたのが正月...なんてシニカルな考え方は、いつの間にか消えてしまいます。

「一年は一月一日から始まる。一年は十二月三十一日で終わる。そこで気持ちを切り替える。...そういうものだ」

これぐらいに理解しておいたほうが、正月の抜けた空気感を味わえて、良いですね。

'11 01月01日 (土) 19時56分 : あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願いします。

早速仕事なんてしちゃってますので、今日はお写真のみでご勘弁。今年の元旦は天気がすぐれなかったので、お写真は去年のものです。去年はスカッと晴れた時間帯が午前中続いてくれたおかげで、さわやかな初詣が出来ました。今年は雪が降ったりやんだりでしたけど、逆に冬らしいお正月になりましたねー。

今年も、八戸のお写真を硬軟取り混ぜて載せていきたいと思いますので、どーぞよろしくお願いいたします!ペコリ。

'10 12月31日 (金) 17時16分 : ワイパーの向こう、光の向こう

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2010年も、いよいよ終わりですね。今年一年、皆さんはいかがお過ごしでしたでしょう? 僕は本当に楽しい一年になりました。色々と大変なこともたくさんあったけれど、多くの出来事は僕にとって最高の瞬間であり、きっと死ぬ直前の数分に思い出したくなるであろう想いを感じさせてくれました。大げさだよー! って思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、本当にそう感じたのです。

こんなしあわせなことは、無いよなぁ。

来年が、皆様にとって良い一年になりますよう、心から願います。

あ、そうそう。僕、前の会社を辞めて、地元八戸に帰ってきたんですよ。気づかれてましたか? 写真の鮮度がよくなっていたから、お気づきの方も多かったかもしれませんね。

...ほら、大げさじゃなかったでしょ? 「僕にとって最高の瞬間であり、きっと死ぬ直前の数分に思い出したくなるであろう想い」って言葉が。

ワイパーの向こうに、光が見えます。新しい一年は、もうすぐそこです。

'10 12月30日 (木) 17時00分 : カバン、掃除機、カバン、カバン

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1個だけ仲間はずれがあります。何でしょう?

(写真は南高校のグラウンドです。寒い中部活に励む高校生を眺めてホッコリとした気持ちになった後、ふと気づくと4つ並んだ椅子の1つに掃除機が乗っているのを見て、一瞬前後不覚に陥った次第です。もしかしたら、今時の高校生は掃除機をカバン替わりにしているのかもしれません(笑))

'10 12月29日 (水) 17時29分 : 八戸サザンハイスクール

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八戸の公立高校には「八戸東」「八戸西」「八戸南」「八戸北」と東西南北が揃っていて、均整がとれ整備された街という雰囲気があるのですが、生徒数の減少により「八戸南」が「八戸北」と合併する事となってしまいました。

海のそば、夏でも夏服になれないぐらい冷涼な風が吹く、八戸南高校。その窓からは海と牧場が見える、丘の上の高校。なんだか小田和正の歌の舞台である横浜を思わせる立地です。それに「海の見える高校」ということで、サザンオールスターズの世界観にも近いものがあるんじゃないかなーって思います。港町の高校としてのアイデンティティを強く掲げたその高校が閉鎖されることが、非常に残念だというのが正直なところです。

けど、僕は思うんですけど、残念に思うなら、人口を増やせば良いと思うんです。なんとなくですが、活性化だとか何だとか色々な試みがありますけど、街としての八戸の最大の目標って「人が増えること」ではないかなぁと思うんですね。八戸は毎年の春に1500人ほどの人が街を去ります。主に若い世代です。それは、とても寂しいことです。

きっと、南高校を復活させたいと、思っています。

'10 12月28日 (火) 18時46分 : リンゴ箱の縦横比について

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「リンゴ箱」という言葉、青森の人は当たり前に使いますが、案外都会の人...特に西日本の人には通じないものです。16:9よりも横長の長方形で(2:1よりもまだ横長のようです)、30センチぐらいの深さの木製の箱のことが、北国の人ならすぐ連想できるんですが、見慣れない西日本の人は「ダンボール?」なんて思ってしまうんですね。

そんな風にリンゴ箱は北国青森の暮らしの中には日常的に満ち溢れていて、普段何気なく暮らしていると注意すら払わないことが当たり前になっています。でも、その風情というか、特に何年も使ったりんご箱独特のザラザラ感や、黒ずんでしまった色合いは、たまらないものがあります。特に高級な木材を使っている訳ではないので、痛みも早いし見た目も良くはありません。しかし、長年このサイズの箱を使い続けてきた歴史だったり、先人の暮らしや知恵のようなものが、何かしら独特の重みをリンゴ箱を見る僕達に感じさせるんですね。

そして何より、リンゴ箱に入ったリンゴたちの、妙に居心地の良さそうな感じがうれしく思います。木から生まれ、木の箱に行儀よく収められた、かわいいリンゴたち。

'10 12月27日 (月) 18時20分 : 退廃と生活と

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こうやって明らかに僕らの生活や経済活動から出たゴミが打ち寄せられている海辺を見ていると、退廃は案外生活と同義語だったりするのかもなーなんて思ったりするのですよ。ハイ。

'10 12月26日 (日) 15時51分 : あじさいの中の分水嶺

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あじさいは見事に枯れ尽くしているけれど、来年の春にはどこから芽が出てくるのだろう? 先端の花の部分は落ちるとして、途中の枝は落ちるのだろうか? 株の根っこのところから倒れているあじさいを見たことが無いから、きっと全体が死んでいるということは無いのだろう。となると、枯れ尽くしているように見えるあじさいの中にも「ここから先は捨てる」「ここから手前は残す」といった分水嶺があることになる...うーむ。

そして、もうひとつ疑問が。このあじさいは「雪が降ったとき、6月の梅雨の時期の美しさとは対局の、退廃的な美しさが頂点になる」ことを、知っているのだろうか?

'10 12月23日 (木) 17時45分 : 冬と自由

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子供は冬でも自由で良いですよねー。耳が痛かろうが指先が痺れようが、構わず駆けまわってる。オトナになるとどうも「冬は不自由だ」というイメージを持ってしまいがちですけど、冬の内情は「ただ寒いだけ」ですし、実はそうでもないはずなんです。

一方、僕の冬はというと、基本的にはひきこもりです(笑)。外に出るのは、買い物と...写真撮影の時だけ。モコモコに着込んで一日中外を歩きまわっているので、遭遇した人はさぞかし不審がることでしょう、いやはや。とはいえ、体から湯気を出しながら外を歩いている時、体の内側からの熱が北風を心地良さに変えはじめる時、同時に不自由の壁も突き抜けていくのがありありと分かります。

体を燃やせば、冬は自由になる。1月・2月の厳冬を迎えつつある今、改めて防寒具の点検をしながら少しニコニコしてしまったのは、あの北風の心地良さを思い出したからです。

'10 12月22日 (水) 19時14分 : 石と氷

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八戸の人には何てことない道路の風景ですが、雪や氷に慣れずかつ舗装された道路にも慣れていない人が見ると、石と氷の芸術に見えるかもしれません。

実際、雪や氷に慣れていてかつ舗装された道路にも慣れている僕でも、あぁ、なんだか大したものだな、って思いますし。自転車の轍の後とか、イカニモっぽくて。

'10 12月20日 (月) 15時07分 : まだ雪はやさしい

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12月の雪はやさしくて良いですね。ちらちら・ひらひらと舞いながら落ちてきて、頬をかすめてもフワリと溶けて。地面に落ちたら砕けて消えて、白い煙みたいにアスファルトの上を流れていって。

難しい表現ではありますが、まだ雪が「冷たくない」んですよ。12月の雪は、まだ。

これが2月ぐらいになると、雪は叩きつけるように吹雪いて、冷やした金属の棒を頬に押し付けるようにビリビリと後を引く冷たさで、靴の中まで濡れて冷えて。

2月頃の雪は、容赦ありません。それに比べれば、12月の雪はやさしいものです。

'10 12月18日 (土) 13時40分 : 雪が降った日の助手席の心得

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雪が振ると車を運転する人は憂鬱になってしまうのは仕方がないけれど一方助手席に乗る側としては雪景色だったり窓にぶつかって溶ける雪だったりネオンが屈折するフロントガラスだったりを見られて案外楽しいんだけどハシャギすぎると運転する人の神経を逆撫でしてしまいそうだから実はこっそり身を潜めて水滴をじーっと見つめてキレイだなぁって心のなかでつぶやいているのです。

'10 12月17日 (金) 13時41分 : 待っていてくれるから、待っていられる

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昨日は寒くて、雪が降って、大変でした。

そんな中、誰もいないのに、ずーっと明るく道を照らしてくれるバス停を見つけると、どこかホッとします。

誰も待つ人がいなくたって、バス停はずーっと僕らを待っています。そんなひたむきなバス停の姿勢が無意識に感じられるからこそ、どんだけ寒くったって、僕らはバスを待てるのかもしれません。

今年もあと2週間で終わりですね。みんな、何かしらの気持ちで、来年を待ってるんだろうなぁ。せっかくなら待ち遠しく、楽しく待ちましょうよ。

'10 12月15日 (水) 15時08分 : やるせなさについて、空は知らない

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やるせなくて悔しくて切なくてどうしようもない時、八戸では車を走らせる人が多いようです。

きっと車窓が、ただただ受け入れるしかないような、あるがままの世界に満ちているからでしょう。自分の中の事はうっちゃりきれないからこそ、自分の外側のうっちゃりきれている世界に寄りかかりたくなるのでしょう。

自然は悩みませんからね。うらやましいですよね。

昼下がりの曇天の空に輝く太陽は、静かに北バイパスと電信柱と田畑と野山を照らしています。年の瀬の最後、空は何も考えず、ただ雲と風を運んでいます。

'10 12月12日 (日) 17時26分 : ホームの母

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あんまり寒いのでお写真のみの更新でご勘弁。写真は八戸駅から南を望んでいます。この先の街から、みんな帰ってくるんだなぁ。楽しみだ。昔「岸壁の母」なんて唄があったけど、さながら「ホームの母」な気分です。

'10 12月11日 (土) 16時59分 : みみきかんじ

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子供の頃の僕は「みみきかんじ」だった。「みみきかんじ」は以下の2つの意味がある。

  1. 耳が遠い子供
  2. 人の話を聞かない子供

悪気もなく意図もなく、単純に相手の声が小さくて聞こえない時に「みみきかんずこの!」(「みみきかんじ」はしばしば「みみきかんず」と発音される)と言われると、後者の意味を感じてヘコんだものだった。結果として、僕は両方の意味で「みみきかんじ」だったと思う。

それにしても、どうして八戸弁では「耳が遠い子供・人の話を聞かない子供」という「子供」に対してだけ使える言葉なんか、作ったんだろう? それとも、実はこの言葉は大人にも適用できるものだったりするのだろうか?

いずれにしても、僕は今もまだ「みみきかんじ」だということは言えそうだ。人の話も聞かずに空ばっかり見ていたから、こんな写真ばっかり撮るようになってしまったのかもしれない。

'10 12月10日 (金) 12時14分 : 記憶を揺すって

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12月も上旬を終えようとする今頃、新幹線で帰省する方はもうチケットを手に入れましたか? 新幹線のチケットは乗車日の30日前からチケットを買えるんですが、良い席を手に入れようと思うと25日前ぐらい、どこでも良いから席を手に入れようとすれば15日前ぐらいにはみどりの窓口に行かないといけません。

チケットを買うということは、都会での生活を一時的に切り上げることを決めるという意思表示で。

その瞬間から、既に帰省は始まっている...というか、仕事に集中している意識の中にわずかに田舎の風が混じりはじめるんですよねー。縮こまって丸くなって記憶の片隅にいた田舎の記憶が、少しずつむくむくと熱を持って膨らみ始めるんです。

田舎に住む人は、想像してみて下さい。全国からたくさんの人が帰ってくることを。そして、その帰省は既に始まっていて、田舎を想う人が急激に増えていることを。

写真は、東北新幹線の車窓から見た景色です。都会と田舎は陸地で繋がっていることって、都会で暮らしてたり田舎で暮らしてたりする間はなかなか想像できないものですけど、車窓を眺めていると「それは確かに繋がっている」と信じられるようになります。新幹線だろうが車だろうがバスだろうが飛行機だろうが、乗り物に揺られながら、田舎の記憶が目覚めていきます。

'10 12月08日 (水) 17時50分 : 夕暮れ怖い

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八戸ぐらいに田舎になると、夕暮れにすら迫力があって、世界を赤く染める力の強さに恐怖を覚えてしまう事もあるんです。

田舎には、自然に対する遮蔽物が無いのでしょう。夕暮れの光が、幅が広くまっすぐな中世の剣のように、ズドンと胸に突き立てられるんです。

夕暮れ怖い。世界を短時間に一変させてしまう自然の力が現代においてでも残りすぎていて。そして、キレイすぎて。

'10 12月07日 (火) 17時10分 : 八戸の3つの冬の閉じていく過程について

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お正月頃の空気感が、いよいよ出てきました。晴れてるというよりも空いてるという感じで、ガランと抜けた空気感。

僕の中では冬は3つのフェイズに分けられます。

11月の秋口から入っていくのは、12月・1月頭の「開かれた冬」。冬休みにクリスマスにお正月、まだまだ体も元気だし、寒さも本番とまではいかない。冬の楽しさ・ワクワク感と年末年始の開放感に満ちた、楽しい冬です。ビールを飲みたくなるのも、この頃です。

その後1月中旬から後半にかけての雪深い「いかにもな冬」。八戸では例年、お正月の終わりかけから1月15日(昔の成人の日)の間にドカッと雪が降るんですが、その光景はまさに冬本番、ザ・冬です。雪だるまが大繁殖して人間の隆盛をおびやかし、大人たちは雪かきと雪だるま製造に追われます。

そして...2月の「閉じられた冬」。押し黙る暗雲と、厳寒。楽しげに街行く人は一人もおらず、皆が皆襟を締めて足早に去っていきます。ひどい風邪を引く人も増え、行楽自体が日々の生活から消えます。しかし、そんな中だからこそ、八戸の春を呼ぶ祭り「えんぶり」が映えるのですね。最も辛い時期だからこそ、僕たちは馬に身をやつし大地を踏み鳴らし、膨大で深淵な春のエネルギーをささやかにノックし、祈るんですね。

今は「開かれた冬」、まだまだ冬の風情はこれからです。

'10 12月06日 (月) 09時56分 : 冬の牙の前に

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いよいよ秋も終わり、冬へと一直線...と思ったら、昨日今日と妙にあたたかくて(15度!)、秋が最後の輝きを見せているような気配です。むしろ春らしいとすら思えてしまうあたたかさに、ついつい襟もゆるみます。

この穏やかな海も、いつか冬の牙を剥くのかと思うと、なんだか不思議な気分です。

'10 12月03日 (金) 10時04分 : あたたかい雨が、気味が悪くて

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こんな事を書くと「北国の人はやっぱり変わってんなぁ...」と思われるかもしれませんが、北国の人は「冬の間、毎日毎日厳しい寒さが続くこと」を強く強く思い込んでいるので(そうじゃないと、毎日寒くてやってられないのかもしれませんね)、稀に南風が吹いてあたたかい雨が降った日などは「うわっ、気持ち悪い!」と妙に訝ったりするのです。

八戸は、まさに今日、気味が悪いくらいに温かい雨の日。

あたたかい事を素直に喜べば良いんですけどね。それ、なかなかしにくいです、実際に八戸に住んでいると。なんでだろう、服装とか暖房とか心構えとか、常に厳しい寒さに対してチューニングしているのが仇になってるような気がします。

やっぱり、素直じゃないですよね。

'10 12月02日 (木) 16時11分 : セメント慕情

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色が抜けた街に、つかの間の生気を与えるような夕暮れ。そんな田舎の風景を見ていると、太陽の光の美しさを最大限に引き出すためにわざと街の彩度を下げているんじゃないかとすら思えます。

港町八戸はセメントの灰色で出来ているので、余計です。

「セメント慕情」みたいな演歌を誰か、歌ってくれないかなぁ。きっと全国の人はピンと来ないだろうけど、港町に住む人なら、その色合いの切なさが、分かるはず。

'10 12月01日 (水) 18時46分 : 冬の街に音はまばらで

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北国の冬に特徴的なのは、如実に街から人が減るということです。明るい時間も短いし、何せ朝夕(晩ではなく夕方)冷えます。街を行く人達は10時から15時頃に集中して、それ以外の時間はほとんど街に人の姿はありません。せいぜい18時頃に学生が街に出てきますが、大抵の人は車で移動するので、歩道に人はまばらです。

したがって、音もまばらです。

北国の冬においては、人はみな家の中で暖を取り春を待ちます。街を眺める分には寂しいのですが、家の中ではテレビの音や湯の沸く音、コタツの熱気に湿気が混じり、家族のにおいにうずもれた温かい空間が広がっています。家族が一箇所に集まる分だけ余計に家族が親密で、冬という大きなものに家族が固まって対峙していくような雰囲気が生まれます。

だから北国の人は、口では「冬は嫌いだよ」とか言いながら、案外まんざらでもなく冬を想っている人が多いような気がします。冬が厳しい分、家族という仕組みが物理的にも心理的にもうれしいのが、北国なのでしょう。

冬の街に音はまばらで、けどそれは、家族や家が温かいことの裏返しで。

'10 11月29日 (月) 16時09分 : 秋の終了を宣言します

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今日の八戸は雪。あらためて「キレイだなぁ」って思ってしまいました。本当、北国の冬は情緒豊かです。

夏の間に太陽の光とたっぷりの栄養をたくわえた柿も、もはやたゆんたゆんに熟れて今にも弾けそうにゆれています。もはや街中で夏の記憶を蓄えているのは、柿ぐらい。柿以外の街並みは、純然たる北国の冬の金字塔へと、突き進んでいます。

僕の中で、しっかりと、秋が終わった感じがします。秋は深いグラデーションで記憶に刻まれ、十分な情感と余韻を残してくれました。秋、おつかれさま!

'10 11月28日 (日) 15時26分 : ただの通路としての切なさ

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港町八戸の海際には、様々なものがうず高く山と積まれています。それらがどういった事に利用されるのか想像がつかないようなものまで、平気で積んであるんです。行き交う車も興味を示さないし、近くに人もいない。一体誰が何の目的で積み上げているのか分からない不安な状態に、どんどん拍車がかかっていきます。

しかし、それは間違いなんですね。

広々とコンクリートで塗り固められた港湾の一角、そこに積み上げてあるものは、誰かの役に立つものであるはずです。それは誰かにとって大事なもので、実益を生み出し、経済を潤すものなんですね。謎の山はあくまでも一切のコミュニケーションを拒んでいて、自分が何者であるかの説明を一切行っていません。しかし、それは多種多様な物流が交差する港町ならではの流儀なのでしょう。何も分からないまま、人もモノも、どこかへと流れていく。

自分には使えないものが、自分の中を流れていく。自分はただの通路として、媒介物として、そこにいる。それが港町八戸のアイデンティティであり、切ない風情でもあるのかもしれません。

'10 11月26日 (金) 17時02分 : 朝までお別れ

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冬の公園は明るい間でも遊ぶ子どもが少なくて、たまたま通りがかっただけなのに「なんで遊んでくれないの?」って言われているような被害妄想的感覚を覚えることがあるんです。子供の頃、芯まで冷えた鉄の手すりなんかを握った時の痛痒い感覚が蘇って、思わず手をギュッと握ったりしてしまいます。

夜へと突入していく公園に小さく別れを告げて、僕は家路を急ぎます。明日の朝、お互いつつがなく再会するために。

'10 11月24日 (水) 19時10分 : 冷える壁

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「寒すぎて雪が降れない」という表現があるほどに厳しく気温が下がる八戸では、大抵の家には灯油ストーブをはじめとする手厚い暖房器具が詰まっています。子供を育て、お年寄りをいたわり、働く世代の疲れを癒すのは、家の真ん中にある暖房器具です。

だからこそ、住む人間を失い冷えるしか無い家々ほど寂しいものはありません。何ヶ月も放置され冷え続けた壁は、表情こそありませんが何処かしら恨めしいような雰囲気を感じる時があります。破れた障子、蜘蛛の巣の跡(蜘蛛はどこへ行ったのか?)、こびりついた汚れと陰...今から数ヶ月の間冷え続ける家を見上げながら、北国では温めることが生きることと等価なのだと、改めて感じるのです。

'10 11月19日 (金) 20時16分 : この影の濃いからこそ

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彫りが深い顔、という表現がありますけど、八戸の冬は「彫りが深い」感じがする時があります。なんとなく、影が濃い。海と陸の境界線に位置するこの場所は、夏こそ豊かな恵みに溢れる場所ではありますが、冬は厳しいものです。そんな厳しさを諦めて受け入れているかのように、道端に落ちている影のひとつひとつが「影の影」とでも言うべき濃厚な暗さを蓄えているように見える時があります。

上の写真はあたたかい車の中から撮ったものではありますが、どこか不吉な影のようなものを感じざるを得ないところがあって、家族や友人や社会のあたたかさの中に紛れながら何とかこの冬の厳しさが紛れ、通り過ぎていけば良い...という保守的な想いが駆り立てられるんです。

植物たちは既に春に向けた仕込みをはじめているだろうのに、それすら想像できないほどの、厳しい季節です。これだけの影の濃さがあるからこそ、八戸の港町文化はどっしりと底支えされ、本物感が担保されるのでしょう。

'10 11月17日 (水) 21時14分 : 涙が出るくらいに

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あーなんて晴れなんだろう。外に出れば涙が出るくらい寒いのは分かっているのに、写真を撮りたくなる。

...都会の人は「涙が出るくらい寒い」という感覚がよく分からないようです。八戸の人なら分かってもらえますよね? 風が強く冷えた日は、歩いているとまぶたの端っこが濡れたようになって、まるで泣いているように感じることを。

'10 11月16日 (火) 23時33分 : 仮の白菜

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多忙のためお写真のみでご勘弁。寒いのにどっこい生えてる白菜でございます。...なんで生きていられるんだッ!? それとも、実は仮死状態だったりするのだろうか?

'10 11月14日 (日) 17時51分 : 運転手さんを褒めよう

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八戸はやたらと車社会で、当たり前のように一人一台ペースで車を持っている家が多いんですね。当然みんな免許を取って、当然みんな大枚をはたいたりローンを組んだりして車を買って、当然みんな車庫入れなんかもマスターしています。

みんな、えらい。

僕は免許が無いので、いろんな人の車に乗せてもらいます。運転してもらうことの、なんとうれしいことか。ポカポカした車の中、あったかいお茶でも飲みながら北風を切る音やタイヤがアスファルトを叩く音に耳を傾けていると、このままどこか安心できる場所に連れていってもらえるような気がするのです。

それは、僕が小さいころから車に載せられて育ったからかもしれません。

そんな風にしてみんな車に育てられている八戸だから、今八戸で車を運転している人は、もっと誇って良いんじゃないかなぁって思います。運転手さんは、ただ車を操作して移動しているだけではなく、「心地良い空間を作り上げている」んですから。

'10 11月13日 (土) 15時35分 : クリスマスまで、澄んでいく。

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世間はもう冬の装いですねー。昨日バーに行ったんですが、店内のBGMがクリスマス仕様になっていて、すっかり楽しくなったり切なくなったり。

八戸を含む県南地域は、空気の澄み方が素晴らしいということで、さりげなく天体観測に良い土地として天文ファンには知られている土地らしいのですが、天文ファンでなくとも八戸市民なら誰でも分かるはずです、よその町に行った途端に「あれ、なんか、空気がくぐもってる」って。

八戸の、自分の目線が遠景まで引っ張り出されそうな気持ちになる程に澄んだ夕暮れ、世界の輪郭がとびきりクリアでソリッドに見える時。その景色はまるで「これが世界の美しさだ、絶対に死ぬまで憶えておけ」と世界から言われているような気持ちにさせます。

一般的に、クリスマスに売る商品のチラシデザインなんかだと、あたたかな湯気やくもりガラス、雪、煙、光がにじむランプといった「広がり、にじみ、輪郭をぼやかすもの」がよく用いられます。でも、八戸のクリスマスは真逆に澄み切っているので、実はそういった演出がピンと来なかったりします。

メリークリスマスまで、あと1月半ほど。八戸は、さらにさらに、澄んでいきます。

'10 11月10日 (水) 21時49分 : 豊かな風邪

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一度引いて治りかけて、ぶり返して小康状態になった風邪の体を引きずりながら、超多忙な一日を終えた次第です。まだ仕事が残ってます。

というわけで、ストック放出でございます。お写真のみの更新でご勘弁を。

洋野町の海なんですが、パソコンの上でガシガシにイジッてたら、こんなんなっちゃいました。怖いですね、ええ。でも、豊かな海なんですよ。豊かな海は、やさしさと厳しさの振れ幅がハンパないからこそ、豊かなんだと思います。

ということは、僕の風邪も豊かなんですね、きっと(涙)

'10 11月09日 (火) 20時16分 : 記憶から消えていく秋

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いよいよ秋のことを忘れはじめた気がする...上の写真みたいに暖かげな景色が、意識の中から消えてきた気がするもの。秋のことを引きずっててるのは意識的な僕だけで、無意識の僕はすっかり冬に突入してしまっているのかもしれないなぁ。

'10 11月07日 (日) 20時28分 : 港とは呼べない場所

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秋...というよりは、もはや冬の厳しさを孕む、八戸の海。三陸海岸の北の果て、親潮と黒潮がぶつかる豊かな漁場でありながら、台風や津波の恐怖にさらされ続けた三陸唯一の未開発地帯が、八戸東部から階上町・洋野町から普代辺りまで残されています。それはもはや「港」とは呼べない場所、「浜」といったほうが正しいかと思います。その野性味、強大さ、恐怖とも言える雰囲気を表現するもっと良い言葉があれば良いんですが...

とにかく八戸は、「港」と「浜」を両方持つ稀有な町として、豊かさと自然への畏怖の間で、冬を迎えようとしています。

'10 11月06日 (土) 17時42分 : 地上100mの彼に

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引っ越した東京の友人宅に行った。「タワマン」。最初聞いた時は「タワマン?」と聞き返してしまったけど、タワーマンションの略らしい。僕はそこまで世事に疎くなってしまったのかぁーなんてボンヤリ考えながら部屋に通されると、すげーキレイ。夜景スゴイ。大体、地上100mぐらいある場所に住むって、どういうことだろう?

インテリアだってスゴイ。対面式キッチンには美しい曲率のフライパンやお皿が並び、テーブルと椅子はシックな木製、テレビは無くてPAとスピーカーがドカーンと壁一面を占領している。反対側は手触りも目障りも良いソファ。何から何まで、スゴイ。

でも、そんな中で、小さな観葉植物がポツンと置いてあった。本来根をはるべき土から100m以上も離れてしまっているけれど、健気に厚めの葉をふくらませている。

もてなしてくれた彼の言葉も(昔はバカな仲間だったけど、今やもっとバカで、しかも立派になったなぁ)、彼の料理も、素晴らしいインテリアもしっかりと憶えてはいるけれど、あの観葉植物は特別に心に残っている。

というわけで、僕は今日も「観葉植物が欲しいなー」と心のなかでつぶやいている。

'10 11月05日 (金) 18時53分 : 有刺鉄線が見守るもの

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小さい頃は怖くなったんですけど、今になって有刺鉄線を見ると「あーもう近寄るまい」って思いますよね。別にケガするからっていう訳じゃなくて、例えばセーターやチノの裾を引っ掛けたくないから、とか、みっともないから、とか、くぐる時に体のどっかが吊るんじゃないか?とか。

そこに込められたメッセージは壮絶に残酷なんですけども、子供の頃はそれすら分からなかったんですね。「入ってきたら、ケガさせるぞ」っていうメッセージも、子供から見れば「ケガせずに通れたら、うれしい!一等賞!」ぐらいの感覚で受け止められるんですもんね。子供ってスゲーって改めて思います。

そういえば、子供の頃の僕のシャツには、オレンジ色の線が何本か走っていたような気がします。背中をガリッと傷つけたりしながらも、有刺鉄線をくぐること自体を楽しむように、空き地を駆けまわってたっけな。

今の僕は、有刺鉄線の前に立ちすくんで、距離を取って、カメラを構えています。けど、心のなかでは実は親しみをもって有刺鉄線を眺めているんです。もしかしたら有刺鉄線の方も、四方八方に向けたトゲのどれかが、僕たちを案外優しく思ってくれてたりして。「僕は本当はニンゲンを傷つけたくないんだよぅ」なんて。

北の港町・八戸では、子供たちは有刺鉄線に囲まれ育まれていると言っても、過言ではないのです。

'10 11月03日 (水) 15時28分 : 晩秋の最後の祭り

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すっかり風も冷たくなって、さすがに「あったかいね」「ジャンパー要らないね」なんて言う人もいなくなった八戸、道を行き交う肩を縮ませて歩く人と、すっかり冬の装いといった風にくすんだ色合いを浮かべる古い街並みです。

しかし、そんな寒さを耐える町よりも数メートル上、木々にはすっかり傾いた太陽の光が煌々と浴びせられ、色鮮やかに輝きながら風に揺れています。まるで祭りか何かのようにザワザワと音を立てる木々と、寒さに口を閉じる町のコントラストは、きっと北国の晩秋にだけ見られる不思議な光景ではないかと思います。

秋も終わりそうですね。いよいよ、厳しい冬が地面から染みだしてくる頃です。

'10 11月02日 (火) 17時47分 : 怖いけど眺めてる

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怖い! 怖すぎます、この景色。

でも、なんだかなぁ、好きなんだなぁ。学生の頃、こんな薄闇の中で友達と爆笑しながら帰ったり、好きな子のこと考えてたりしながら、ずーっと眺めてたからかなぁ。

'10 11月01日 (月) 14時48分 : ベールをレンズで抜けていく

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八戸の秋の月です。田舎だから大層月が美しいことでしょう、きっと模様までクッキリと見えるのでしょうね...と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、大きく大きく月が上がる日以外は割と肉眼では模様までクッキリ見ることは難しいんです。もちろんそれでも、美しいには変わりないんですけども。

そんな月をカメラで撮ると、改めてその精緻な美しさがハッキリとわかります。手持ちのレンズでも、これぐらいなら撮れてしまいます。

この世界のキレイさって、実は僕らが見えないぐらい細かく、もしくは見えないくらい大きく、より何層にも重なりあって、無数のベールのように存在しているんだろうなーって思わされる一枚でした。

ありがたいなぁ、世界がキレイでいてくれて。

'10 10月31日 (日) 16時39分 : 野性的な秋

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眠いですよねー、あたたかい昼って。

この前東京からの客人を迎えてタクシーに乗ったんですが、運転手さんが「暑いですよね、クーラー入れますか?」と言うのを聞いて客人が驚いていました。東京に比べたらスゴく寒いのに、車の中のポカポカ具合が暑いからこの時期にクーラーを入れようとする八戸の地元民の感覚に驚いたわけです。

昼下がりの太陽の温かさは、寒さに順応している八戸市民からするとクーラーものの暑さなんですね。それほど強烈な温かさだからこそ、一発で眠くなるわけで。

道路に寝転がって寝てしまえそうな昼間から、襟をギュッと締めて身を縮こませて歩く夜までが、落差の大きいグラデーションで繰り返されるのが、八戸の秋です。ただただハンパな温度になるのではなく、冬と夏の間を行き来し揺れながら冬へと収束していく様子は、東北以北にしか無い秋の形のような気がします。

東北では、そんな野性的な秋が、まだ、生きています。

'10 10月30日 (土) 20時36分 : 見ること、祀ること

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鳥居の向こうには海しかなくて、その他には何も無いですから、当の僕は鳥居に囲まれた空間を見るぐらいしか、やることがありません。ただじーっと声も出さずに見ているしかない、鳥居の向こうの海。

でも、そのうちだんだんと「見ているだけで、良かったんだ」という気分になってきます。鳥居は何かを祀っているのだと仮定して、何を祀っているのかと言えば、やはり海そのものしかあり得ない。僕が海を見るということは、海に注意を向けている事だし、僕という意識が海に最もフォーカスしている事の証左です。つまり、僕は海を見ることで、僕という意識を海に差し出していると言えなくもないのです。

見るだけで、良いのかもしれない。

例えば「鏡に写った自分の体を毎晩見るダイエット」なんてありますが、アレも案外外してないのかもなぁって思います。見ることは、見る対象に意識を差し出して、自分の限られたエネルギーの使い方をそちらに向けることに繋がると言えそうだからです。

目線を海へ向ける装置として、八戸近郊の海岸には無数の鳥居があります。それらは僕らをして、海を祀らせしめている...そんな事を感じました。

'10 10月28日 (木) 14時44分 : 寒さをそのまま吸い込んで

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先日、八戸の館鼻岸壁にズラリと漁船が並ぶ日がありました。特別な都合があったらしく、岸壁を色鮮やかに彩る船団をゆっくりと眺められるのは珍しかったみたいです。運良くその場に居合わせた僕は、バシャバシャと写真を撮っていたんですが...まぁとにかく寒いわけです。雨が降っていて、風が強くて、冷え込んでいる。雪なら服も濡れないので気持ち的に楽なんですが、雨は辛いんです。

...この辺りの機微は、北国育ちではない人たちには伝わらないかもなぁ。雨は濡れて冷たいけれど、雪は服から落ちるから冷たくない。「雪のほうが寒いに決まってんじゃん!」というツッコミは十分に想像できるのですが、こういう感覚も北国には存在しているのです。ご容赦下さいね。

さて。話を元に戻しますが、とにもかくにも寒いわけで、体を無意味に動かしたりしながら必死にカメラを構えていたわけです。

しかし思うんですけど、この写真に写っているのはほとんど金属やガラス、寒さも雨も拒むこと無く受け入れる存在です。道具として金属やガラスを整形して、そいつらに寒さを肩代わりさせているわけです。金属を船の形にして海に浮かべるからこそ、僕たちは体を濡らさずに冬でも漁ができます。

船というと、一人で作れませんから、ちょっと手の届かないもののように思えます。しかし、それはあくまで誰かが作った道具の1つであって、僕たちが快適に暮らせるようにするために存在しているわけです。そんな使命を帯びているからこそ、冷たい秋の海と雨に挟まれながらも、何の文句も言わずにじっとしているんだなって、感じたんです。

雨や寒さといった、僕たちにとっては辛いものを物言わず吸い込んで、船は僕たちに快適な生活を約束してくれます。僕はそんな船に敬礼をするような気分で、シャッターを切りました。

'10 10月27日 (水) 13時19分 : 道を封じる

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漁港へ至る道を封じているのは、ロープと巨大なウキでした。

道を封じるのは、浮わついた人が入ってきて遊んだり車の中で騒いだりするのを防ぐためでもあり、密漁を防ぐためでもあります。田舎ですから比較的寛容ではあるものの(その寛容さが100%妥当かはさておき)、今でも夏場にキャンプ等をやるといつのまにかゴミ袋や海パンにごっそりウニを連れてくる人もいるらしいですから、密漁は案外深刻な問題です。煌々とライトで海を照らす密漁監視小屋は、さりげなく浜の文化のひとつにまでなっています。

僕がこの場所で写真を撮っていたのは、天気が荒れていた薄暗い頃。通行止めとしてではなく、「危ないから、ここから先に行ってはダメだよ」と優しく諭してくれるように、ウキは揺れていました。

そのウキは、道を封じる以上に、僕の命に迫る危険を封じていたのでした。

'10 10月26日 (火) 20時52分 : 黒い手と街灯

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どうしてこうも、田舎の街灯はいとおしいんだろう? 暗い夜道(といっても、実は16時台だ)、アップダウンの激しい海沿いの道を尻を浮かせながら走る間に感じていた不安は、たった数個の街灯が吹き飛ばしてくれる。自然の寡黙な凶暴さが黒く大きな手となって現れる森の闇から、僕ら人間に一切寛容さを見せない岩と塩水が支配する海の闇から、街灯は人間のための土地を奪い取り、確保してくれるようだ。人間が住んでも良い土地を示す灯台か何かのように、それは立っている。光はあたたかくて、やさしくて、僕らが警戒を一瞬解いて、眼を閉じたり家族を想ったりするスキを与えてくれるようだ。

田舎では、まだ自然と人間が領土争いをしている。田舎に住む僕らは、その戦火をかいくぐりながら、生きている。

'10 10月25日 (月) 18時45分 : ざらついた16時

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海沿いに広がるススキの野原に、雨上がりの16時の暗闇が染みこんでいきます。北国の秋は、夕方さえ不気味さをにじませるんです。黒々とうねる海面と、妙に明るくコントラストがはっきりとついていて、ちぎり絵のように雲が飛んでいく空。遠近感がうまくつかめないから、雲が間近にあるような、空が迫ってくるような錯覚を覚えたり。

薄闇の中に舞っている光の塵(もしくは闇の塵)は、海のしぶきか水蒸気か?

ざらついた16時が撫でていった感触が、今も頬に冷たく残っています。

'10 10月23日 (土) 17時20分 : 夜のコク

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コクのある秋の夜を何度も何度も吸い込んできたからこそ、この街並みなのだろうなぁ。

明るい店の蛍光灯も、夜の濃さには完全に力負けしているぐらいの夜の街並みだからこそ、光が純粋にうれしくなるのかもしれません。

'10 10月21日 (木) 22時02分 : ただキレイなだけの存在

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花ってただキレイなだけの存在かもしれないけど、それでお金が回って人が生活出来るってんだからスゴイなぁ。

でも、花から見ると、自分の周りでお金や人が回っていく様子が見れるわけで、僕が花だったらどんな気持ちがするかなぁ。

いじらしくて、切ないだろうなぁ。

'10 10月20日 (水) 11時12分 : 美的感覚としての八戸

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この風景を寂しいと思うひと、ネガティブに捉える人もいるかもしれないけれど、僕にとってはこれこそソウルフードならぬソウル風景、ソウル色合いだったりします。時間が経った素材の色合いとか、広い土地と透明な空気が無いと出来ない素直で力強い太陽の色合いとか、ソフィスティケートされてない代わりに造った人の性格までにじませるカンバンのフォントとか。

一種の美的感覚として、ジャンルとして、大好きな色合いです。

'10 10月19日 (火) 22時07分 : どこにもいない大人

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この歩行者用信号機の大人のひとは、いったいどこにいるんだろう? 八戸では見たことないから、都会にはいるのかな? と小さい頃の僕は思っていたけれど、結局都会に出てもいなかったなぁ。

この人、どこに行こうとしてるんだろう? あ、横断歩道を渡ろうとしているのか。

'10 10月18日 (月) 12時04分 : 夕闇って怖いよね、でもそれが良い

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昼間は穏やかな秋なんですけどね、時々ゾッとするほど冷たくてオソロシイ感じすらする夕闇が降りる時がありますね。これが都会の人に「北国は陰鬱だ」と思わせる要因なんだと思うんですが、地元の人は案外怖がっていなかったりします。

田舎って、都会よりも自然の力が日常に強く張りだしてきてるんじゃないかと思うんです。

都会だと、雪が降ろうが嵐が吹こうが、なんとなく「死にはしない」感じがします。コンビニに駆け込めば、きっと死なないだろう。そんな風に思えるのが都会のような気がします。

一方、田舎って「ここに逃げ込めば死なないだろう」と思えない雰囲気というか、実際「帰る場所が無かったら、死んじゃうかも?」と思わせる自然の力強さや容赦無さを、身近に感じることができます。だからこそ、その分逆に自然の恩恵も近いわけで。

結局「自然が豊か」なんて言い方はかなりウソで、本当はこんな風になってるんだと思います。

  • 自然に遠い:自然の怖さも恩恵も遠く、人工的に管理され安定した世界
  • 自然に近い:自然の怖さも恩恵も近く、不安定な世界

自然との距離によって、田舎と都会は相対的な距離で広がっています。どちらが良い悪いは無いんだと思うんです。でも僕は、あくまで個人的な趣味の問題ではありますが、仕事帰りの夕闇の深さを感じるにつけ、心の奥のほうから自然への畏怖のような感情が湧き上がって来る田舎のほうが、好きです。

'10 10月17日 (日) 10時53分 : 放置された者同士

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田舎は自然が豊かなので、キレイなお花だろうが案外野放図に手入れされない場合が多いです。でも、それがいいんだなぁ。都会の片隅でガーデニングを見るのも気分は良いけれど、何かしら人工的な感じがしてしまうと興ざめだったりするのは、きっと僕が田舎出身だからなのでしょう。田舎のガーデニングは、野生めいた迫力があるんです。

乾燥した種の集まりの部分を指でつまんでクシャクシャと砕いたりしながら、よく歩いてたっけなぁ、昔の僕は。道端でそんな風に草花と触れ合えたのも、草花が半ば放置されていたからですよね。だって、キレイに管理されている鉢植えのお花に手をつけるのは、どこかしら気が引けますもんね。子供の頃の僕は、ただただ触りたいから触ってた訳じゃなくて、雰囲気から「あ、これなら触っても怒られないだろう」と推測してから触ってるわけです。

子供の頃、特に遊ぶものも泣く親にも相手してもらえなかった時であっても、道端の花に相手してもらえました。それに応えるように草花は、都会のガーデニングで栽培される草花には無い野性味と生命力を道端で発揮し、僕を楽しませてくれました。

そう考えると、僕も草花も放置されていた訳で、少し共感めいたものを感じたりもします。

'10 10月16日 (土) 11時16分 : ゆりの木通りに花が咲く

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通りにコスモスが咲いてて、女子高生が歩いてて、タイヤがアスファルトの上を滑る音も心なしか軽く、風は涼しく太陽はあたたかく、ゆりの木の葉っぱはやわらかくなびいている。

ゆりの木は春には花を咲かせ、冬には実もつけます。八戸に18年とちょっと住んでいたのに、ちっとも見たことが無かったなぁ。

ゆりの木通りは車でばかり通っていたけど、実は毎年花も実もつく、命が紡がれている場所だったのだなぁ。

'10 10月15日 (金) 15時44分 : 秋を降らせる

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秋を降らせていると思われる飛行機を捉えたので、ご紹介します。本当に秋を降らせているかどうかは、あくまで僕の推測の域を出ませんが。

'10 10月14日 (木) 12時00分 : 心はいつもピンボケで

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ズームアップすると、ボケる。これすなわち、カメラではなく心のことではないかと。

視界全体を覆うほどに大きくボケたコスモスの花が揺れていて、遠くにぼんやり道がみえている。そんな景色が映るファインダーを覗き続けていると、まるで僕自身の中を見つめているような、心の中の動きを直接目の当たりにしているような、そんな気分になるんです。

量子の存在を確率の雲としてしか捉えられないように、実はピントが合うということ自体がウソで、実は心の中に100%確かだと言い切れるものは、無いんじゃなかろうか。心はいつもピンボケだってぐらいに考えておくのが、謙虚かつリアルな認識じゃないかなぁ...なんて、ファインダーを覗くように自分を省みてみると、感じられるんです。

ボケたものが大きく揺れているファインダーを覗き続けるとだんだんクラクラしてきますから、カメラも心も、覗きすぎはいけませんけどね。

'10 10月13日 (水) 22時15分 : 刈りそろえてくれない美容室

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建物を包むツタをちっとも刈りそろえてくれない美容室さんです。だからといって、ちっとも職務怠慢ではありませんが。むしろキレイ。

'10 10月12日 (火) 11時20分 : 電線さえ、あたたかい頃

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まぁー色々とやらなきゃいけない事が多くて、頭がこんがらがることも多いんですが、案外なんとかなるんじゃないかという楽観的な考え方をギリギリ守り続けている...という感じの今日この頃です。良い判断と悪い判断、実現できた事と失敗した事、今だけの事と死ぬまでの事、色々な要素をもった無数の出来事が重なりあいながら変化さえしていく様子は、まるで風に吹かれて無規則に揺れる木のようです。

上の写真だって、思いっきり電線に貫通されているのに、どっこい葉っぱは青々と茂ってますもんね。こんなもんで良いんだと思います。どうしても避けられなかったものもあるし、僕の人格や能力が欠如していることの論理的帰結として失敗してしまったこともあるけれど、その逆だってあるはず。案外みんな、頭の中に電線を通しながらも生きてるんじゃないかしら。

これから秋になり冬になり、木々は葉を落としていくでしょう。その間、木々の成長を邪魔してきた電線はむしろ寂しいんじゃないかと思ったりもします。同じように、僕らにとって「上手くいかなかったこと」だって、あたたかく感じる時が来るんじゃないだろうか? ...そんな予想を立てながら、僕は今日も街を歩き、木々を見上げています。

'10 10月11日 (月) 16時23分 : 曲がり角の向こうに、会いたい人がいる

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会いたい人は大抵曲がり角の向こうにいて、曲がり角に着いた時には会いたい人もそこから見える曲がり角の向こうに消えている。誰もが曲がり角の向こうに、愛した人や会えない家族や、昔の自分を期待しているけど、それは絶対に叶わない。黄昏時の薄闇が来る前、まだ明るい頃などには、いよいよ会えそうな気がするけれど。

そんな切ない情緒があるのが、港町八戸の横丁な気がします。

'10 10月10日 (日) 12時47分 : 謎めく秋の学生たち

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夏は日が長いので、学生たちも明るいうちに帰っていきます。夕暮れ時、めいめいに家路に着く学生たちを見ていると、心が和みます。一方、秋は日が短くなってくるので、学生たちが帰るのは暗くなってから。夏の頃の学生はハツラツとした印象だったのに、秋の夕闇に溶けていく学生たちはどこかしら謎めいた存在のように見えます。

このままどこかに、消えていってしまうんじゃないか? とっぷりと濃い闇を湛えた10月の夕暮れに、飲み込まれてしまうんじゃないか?

学生たちが開く携帯電話の画面がチリチリと光を漏らしながら揺れるのを眺めながら、僕は僕で家路を急ぐのです。夜の向こうには、あたたかく明るい家が待っています。

'10 10月09日 (土) 18時21分 : 秋の日の朝のコスモスは

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朝の光に映えるコスモスは、すっかり肌寒くなった夜の空気に浸っていたことをまったく感じさせない瑞々しさとさわやかさで、トラックや自家用車が巻き起こす風にすら身を委ねて揺れている。地面すれすれに低く飛んできた朝日を持ち上げ、跳ね返し、透明な光の粉にして拡散させる。

外套を着込んで助手席に座る僕は、朝飲んだコーヒーの熱のひとかけらさえ逃すまいと身を縮めながら、朝のコスモスを眺めている。一方、僕を朝市に連れていってくれる運転手は寒さに慣れているのか、体をちっとも動かさずに赤信号を見つめている。僕は八戸に生まれたのに、僕の体はきっと八戸の季節の巡り方を忘れてしまっているのだろう。

コスモスは、さあ? とでも言いたげに肯定でも否定でもない角度で揺れている。

北の港町・八戸にあっては秋という季節が濃厚に存在し、主にコスモスが秋を象徴する花になる。都会の人なら襟を絞りたくなりそうにスキッと透明に冷えた秋の早朝であっても、港町八戸に生きる人と同じように、寒がらずあくまでさわやかに、揺れている。

花びらは奇しくも8枚。八戸に何かと縁がある花だ。

'10 10月08日 (金) 18時13分 : 自分から終える

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会社から帰る時に少し後ろめたい気持ちがになる時期がありました。しばらく猛烈に働いた後、なんだか定時で帰るのがおかしな事であるような、みんなに申し訳ないような、そんな気持ちになったんですね。

当然のことながら、そんな気持ちは別に持つ必要はないですよね。果たすべき職務を果たしたんだから、堂々と帰っていいんです。

でも、そんな後ろめたい気持ちの時に八戸を歩いていたら、商店を閉じるために屋根を下ろす商店主さんの場面に偶然出くわしました。一日の商売を自ら終えて「もう今日は金もうけしない」と宣言するかのように、夕日の中でビニール屋根を下ろすローラーを巻いているそのおじいさんを見ながら、大したものだなぁと感心したことを今でも憶えています。

その頃の僕は、自分から始めることばかりに慣れていた年齢だったのかもしれません。自分から終えること、閉じることの大事さや勇気を、もう少し評価しなければって、思いました。

'10 10月07日 (木) 11時10分 : 道は僕とつながってる

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小中高校の頃に嫌いだったヤツの事や、嫌われていたヤツのことを思い出すと、憂鬱な気持ちになったりします。なんであの時、俺はあんな仕打ちを受けたのかなぁ...とか、アイツだけは許せなかったなぁ...とか。けど、年を取ってくると、もう案外そういう事も気にならなくなってきて、思い出しても3回に1回程度にしか落ち込まなくなってきました。

高校生までを過ごした街には、昔の僕を知る人がきっとたくさんいて、今日も街のどこかですれ違っていたり、お店で客と店員という形で接していたりするのかもしれないはずです。そしてその中には、僕と上手くいかなかった人たちがいるはず。そんな故郷を、もう少し若い頃の僕は疎ましく思うこともありました。八戸から離れて暮らしてしまえば、会いたくない人や思い出したくないことに、向き合わずに済むと。

だからこそ、そんな気持ちが晴れてきた今の僕がうれしいし、気持ちを晴らしてくれた何か(時間?経験?海風?)に、ありがとうって言いたい気持ちなんです。道が続くところまで歩いて、一度都会に出たことで2つに別れた僕自身の過去を1つにつなげたいって思います。ダメな自分もイヤな思い出も、すべてを統合した僕自身の金字塔に、なれるかもしれませんから。

東京と八戸だって、道でつながっています。いわんや八戸の中をや。道はつながっているんだから、今からだって、出来るはず。

'10 10月06日 (水) 13時51分 : 連れていく人たち

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職業として「バスの運転手さん」と分類されるのが社会的には当たり前ですが、これを少しひねって「どこかに誰かを連れていく人」と表現すると、途端に詩的な感じが出てきます。

誰かがどこかに行きたいと思っていて、そんな人たちを安価で連れていってあげることを生きる糧にしているバスの運転手さんたちは、言わば「誰かの願いを叶える」ことで生きているわけです。声を交わしたこともない人の願いのために、今日も運転手さんは大きなハンドルをたくましい腕で回しながら街中を走り続けているんですね。

「誰かの願いを叶える」仕事。よくよく考えてみると、バスの運転手さんに限らず、ものすごくたくさんの人達がそんな仕事をしていることがわかります。

誰かが誰かのために働いている。そうやって社会というものが出来ていると考えながら街を眺めていると、大したものだと思うんです。

'10 10月05日 (火) 12時31分 : 胸がはりさけそう

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これからの事を考えてワクワクドキドキしている時も、これ以上無いぐらい悲しくて辛い時も、両方「胸がはりさけそう」という言葉を使います。

  1. 来月からの結婚生活が楽しみで楽しみで、胸がはりさけそうだ。
  2. 来月からの結婚生活が無くなっちゃって、胸がはりさけそうだ。

...なんて具合に、人はうれしくても、かなしくても、胸がはりさけそうになるみたいです。昔の人はドキドキする胸を観察しながら「心は胸に存在する」と考えていたらしいですが、それもうなずける話ですよね。僕の薄い胸板が波打つのを感じるにつけ、心をしずめたい僕は手で胸を押さえます。心に触れたいと思う時、人は脳ではなく、胸や手や背中といった体に触れることが多いのも、心は脳ではなく体全体に充満しているものと感じられるからではないかと思います。

心をしずめたい僕は、胸を手で押さえます。

そんな僕を尻目に、ウミネコさんは今日も飄々と秋空を舞っています。胸をブーンと膨らませて(一体何が入っているというのか?)、首の肉をものともせずにキョロキョロと辺りを見渡すウミネコさんを見ていると、なんだか不思議と穏やかな気持ちになれるものです。

期待に胸がはちきれそうな僕も、悲しくて辛くて胸がはりさけそうな僕も、結局はウミネコさんと同じようになんとなく毎日を暮らしてる存在であることには変わりない。生き物の種類は違うかもしれないけれど、毎日を暮らしているのは、いっしょ。...なぁに、明日が楽しかろうが辛かろうが、どうせ腹も減りゃトイレにも行くし、どうせ今日と同じように眠くなるのさ。

そんなこんなで、胸がはりさけそうに感じた時、港町八戸においてはウミネコさんを眺めることがひとつの処方せんです。でも、ここまで色々書いておいてから言うのも変な話ですけど、「胸がはりさける」こと自体、別に悪いことではないような気がするんです。僕らはウミネコと同じように命というナゾの機能を与えられた存在、言わばこの世界に生きる仲間みたいなものです。そして、ウミネコさんの胸の中に、邪悪なものがあるとは直感的に思えません。だからこそ、もし僕らニンゲンの胸がはりさけたとしても、中から邪悪なものが出てくるとは思えないんですよ。これはただの勘でしかないけど、きっとそこから出てくるものは、生命力や可能性を司る何かじゃないかしら。

そして僕らは、そんな風に胸の中に隠されている何かに突き動かされているからこそ、毎日を少しでも楽しく暮らそうとしているんじゃないかなぁ? ロケットでも入ってるのかってぐらいに突き出しているウミネコさんの胸と同じように、きっと僕らの胸も突き出すぐらいでちょうどいいんじゃないかって思うんです。

'10 10月04日 (月) 12時25分 : すみっこから秋はやってくる

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普段生活していると、大通りを歩いたり車で通ったりするだけで秋らしさを感じる機会は気温と光の色合いぐらい。でも、僕らの予想を越えて秋は着実に広がっているようで、例えば「すみっこ」には秋が顕著に見え始めています。

紙を一枚、部屋のどこか...普段触れない押入れの裏側とか、本と本の間とか、そういうひっそりとした場所に置いておくと、端っこのほうからジワジワと変色していきますよね。あんな風に、立体的な町の「すみっこ」のところに、どこか別の世界から秋が染み込んできているように感じます。

そんな「すみっこ」は、太陽が高い昼間はなかなか陽が当たりません。しかし、コクのある赤い日差しが真横から差してくる黄昏時などには、ふと明かりが入ることがあります。その場所は妙に内省的で、目を閉じて思い出をたどりたくなるような懐かしさに溢れています。

僕自身の心の中に忘れ去られたすみっこがあって、そこには人生の秋のような景色が広がっているのかもしれない...そんな事を思わせる初秋が広がる八戸です。

'10 10月02日 (土) 19時56分 : 図書館の木を見上げる

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よくもまぁ、学生の頃の僕は毎日毎日勉強していたものだ、と思う。

例えば寒くても意地を張ってジャンパーも着ずに自転車で図書館へ行ったり。重い教科書をカバンに詰めて、年に5回のテストの点数という一銭のお金にもならない数字を得るために、お尻が痛いのをガマンしながら勉強したなんて、今の僕からは考えられないな、と本気で思う。

ただただ勉強をして、信号に捕まった帰り道の自転車から見上げた木々が風にざわめく様子を見ながら、未来や不安について実直に考えていたんだな、あの頃の僕は。勉強が一体全体具体的に何の役に立つのかも知らないにも関わらず、迷いもせず教科書とノートに向かっていたなんて、いやはや、スゴイもんだ。

スゴすぎて、ちょっとくやしい。

木々が揺れること、それは単純に空気と木々がぶつかり影響しあう物理現象でしかない。それなのに、あの頃の僕はその揺れの向こう側に未来や不安を見ていた。それを見習おう。年をとるほどに寂しさや切なさが直接心に響くようになってきたし、想像力は時として心を切り裂くことも知ったけれど、それでもしっかりと見つめ合ってみよう。そう思いながら図書館を取り囲む木々を見上げたら、同じように見上げる昔の僕の首には制服のカラーが当たって少し痛かったことを、思い出した。

その痛みのおかげで、今の僕があるのだろう。秋の夕暮れは、あの頃と同じように少しだけ肌寒い。

'10 09月30日 (木) 19時38分 : しあわせな煙

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通りに煙が出ていると、なぜか心が和みます。学生もサラリーマンもお母さんも小さな子もお年寄りも、みんなシレッとした顔(八戸の言葉で「素知らぬ顔、すました顔」みたいな意味です)だけど、みんな「いいにおいだなぁ」と思いながら歩いているのかと思うと、たまらない町がいとおしくなります。

食べ物を焼く匂いは、生活の気配なんですね。

地方は町が寂しいなんて事を言いますが、往来も多く賑やかな場所は、まだ八戸にはたくさんあります。港町八戸独特の文化である朝市や横丁もありますが、夕方に家路を行く人々の穏やかな表情が交差する商店街・住宅街も、未だ八戸には残っています。

このしあせな煙が、海風に乗ってどこまでも広がっていって欲しいなぁ。

'10 09月29日 (水) 10時36分 : ウミネコは考える片足である

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ウミネコさんは、なぜか片足でよく立ちます。寒いから? しまっている方の足を休めている? なぜかは推測の域を出ませんが、海風を受けながら器用にバランスをとっているウミネコさんたちを眺めていると、うっかり風邪を引いてしまいそうになるぐらい、寒さを忘れてしまいます。

繁殖と子育てを終えた成鳥やヒナは、特にやることがありません。といっても野生の生き物ですから当然食べなければ死んでしまうわけで、体力や時間といったリソースをほぼ全て食べることにつぎ込んでいるはずですが、それでも春から夏にかけての子育て中のウミネコさんたちに比べると、どうしても暇そうに見えてしまいます。...もしかして、彼らは「暇つぶし」を兼ねて、わざわざバランスを取らなきゃいけない片足立ちをしているのではないか? なんて邪推をしてしまったりもします。

さて。ウミネコさんたちに比べると、僕らは随分良い生活をしているはずなんですが、思い悩んだりする時もありますよね。自意識が生まれてからは、むしろ悩みが無いほうが珍しいでしょう。一方ウミネコさんたちが片足立ちでじーっとしている様子を見ていると、彼らは僕らよりも過酷な生活をしているはずなのに、些細な悩みというものを持っていないように思えます。むしろ生き物として根源的でシンプルな悩み(食欲・性欲・睡眠欲といった命から要請される欲望)に全神経を集中しているのかもしれません。だからこそ、哲学なんて学問も何も無しに生きることを悟って受け入れられるし、片足立ちで世界から吹いてくる風に立ち向かえるのでしょう。

僕らも案外そういう風に考え方をシンプルにしたほうが良いのかもしれない。僕もたまには片足立ちで考えてみようと思う次第です。

追記

上の写真は、僕ではなく撮影同行者が撮影したものです。撮影者曰く「俺が港の番人だ」という風体が良いとのこと。まさしく。生き物としてシンプルだから、ふてぶてしさのような雰囲気すら許せてしまうんだよなぁ。チョコザイな事ばかり考えてる僕は...色々考えさせられます(笑)

'10 09月28日 (火) 10時25分 : 朝は知ってる

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八戸のおとなり・おいらせ町に位置する地域なじみの造り酒屋・桃川さんのCMのコピーは「いい酒は朝が知っている」。なんで朝? と思わず深い意味を考えてしまうような優秀なコピーだと思います。以前友達と話していた時には、こんな意味が込められているのではないか? という話になりました。

  • 普通に考えれば「二日酔いしない」って事ではないか。
  • いやいや、さすがにそれは当たり前すぎるから「次の日の胃の調子が良い」とかじゃないの?
  • もっと踏み込んで「健康に良い」とか?
  • ちょっと路線を変えて「美味しいお酒を仲間と飲んで、次の日の仕事も楽しくがんばれる」って解釈はどうか?
  • じゃあ「おいしいお酒で女の子を口説けました、てへへ」ってのは、さすがに下世話か。
  • 全然違うのもあるよ、例えば「青森県の澄み切ってさわやかな朝だからこそ、この旨い酒が出来る。朝が良い酒の作り方を知っている」ってどう?

...なんて具合に。まぁ色々と考えさせられるコピーです。本当に優秀だなぁ。

ところで、上記に挙げたコピーの意味の最後「朝が良い酒の作り方を知っている」というのは、港町八戸の朝市にも言えることじゃないかと思います。

空気はどこまでも透明で、かすかに朝もやが立っているのに世界の色合いがありありとビビットに目に飛び込んでくる、そんな朝。横に長く伸びた白い朝日に照らされて、野菜も魚も素材の内側から光っているよう。鍋やコーヒーやおそばの器からは真綿のように濃い湯気が無数に上がり、海風がそれらをいっぺんに動かし持ち去っていく。ウミネコが、僕らのすぐ上を飛んでいる。...だから、朝市のものはみんな美味しそうです。良い食べ物がその場所にはあります。ひいては「良い世界」とでも言いたくなるような美しく豊かな一時が、港町八戸の一角で贈り物のように広げられるんですね。

港町八戸は、漁業と工業を両足にして歩き続けています。特に漁師さんたちは深夜早朝での活動が多く魚が日の出前に揚がることが多いため、自然と朝に街がよく動くようになります。漁師さんが運んできた恵みを求めて人々は早く起き、太陽と行動を共にし、早く寝るんです。

もしかしたら、良い港町も、朝が知っているのかもしれませんね。

'10 09月26日 (日) 16時27分 : 冷えていく秋、光、ウミネコさんの意識的な予想

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秋と言えど朝の光は白く溢れていて、夏にも似た祝福の色彩を帯びています。しかぜ風は冷たくて、日向にいなければ寒くてこごえてしまいそう。八戸の秋は、(個人的な感覚では関東以南・以西の)とても短い亜熱帯的な地方の夏とは明らかに異なり、明確にしっかりと秋として存在しています。この白く溢れる朝の光は、もはや地上を温める力を持たず、ゆっくりと時間をかけて八戸は冷え続けていくんですね。

ウミネコさんは、知ってか知らずか。

2月頃に大群で八戸を訪れるウミネコさんたちは、8月末から9月にかけて南へと大挙して移動します。冬の間も八戸に残るのは1割程度と言われていますが、個々のウミネコさんに「移動する」「残る」を選択させている要素は何なんだろうなぁ? って考えたりします。

さらに言えば、ウミネコさんたちは「もうすぐ寒くなると予想したから移動する」のか、それとも「本能が『南へ行け』と告げたから、訳も分からず移動する」のか? という疑問も興味深いです。もし前者、もうすぐ寒くなるとウミネコさんが意識的に予想したとするならば、ウミネコさんたちは夏の終わりを意識できることになります。

...夏の終わりを感じた時、ウミネコさんたちの心にはどんな感情が芽生えるのだろうか?

追伸

今日の写真...いいですよね(笑) あ、別に自分の写真を褒めている訳ではないんです、今日の写真は一緒に蕪島に行ってくれた(というか、連れて行ってくれた)同行者が撮影したものです。50mmの明るいレンズ、冷たいアスファルトを意に介さず、しっかりと座って時間をかけてウミネコさんを見つめ続けた末に生まれた一枚...すごく好きな写真です。

'10 09月23日 (木) 02時00分 : あしたの残照

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秋独特の澄んだ夕闇の中、残照を受けてたたずむ鉄でできた駅の日差しを眺めていると、熱も音も心のざわつきも、すべて吸い込まれてしまうような錯覚を覚えます。僕の中にたまった行き場のない熱も、心の叫びも、震えも、透明な空気を伝わって鉄が引き受け、受け流してくれているような気分になるんです。

鉄は不思議です。間違いなく自然界の物質であるのに、文明の象徴でもあるように思えます。僕らの体を巡り酸素を運んでくれる命には欠かせないものなのに、一方では公害や環境破壊を引き起こす産業を支えています。

結局は、僕ら次第なんでしょうね。

ただ静かにゆっくりと錆びていきながら駅のホームに立ち尽くす鉄の日差しは、僕ら人間とは少し違うコミュニケーションを心得ているようで、カメラを向けても微笑みこそしないけれど、親の慈悲にも例えられる目に見えない光のようなものを発しているように見えます。残照が明日を連れてくるように、その鉄の光はもっと未来...僕自身の行く末を照らし出しているように、思えるんです。

'10 09月21日 (火) 18時30分 : 誰に隠すわけでもなく、目の端っこのほうで眺めていた

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誰に隠すつもりも、隠す必要もないのだけれど、なんとなく目の端っこのほうで見てしまう景色というものがあって、例えばそれはバスから眺める街並みだったりして、やれどんな自動販売機があったとかベンチが何脚あったとか、日差しは透明のアクリルで薄く色がついているだの、地面が傾いている傾いてないだの、妙に細かなところがしっかりと心に残っていたりもするのは何故だろうかなぁ?...なんて考えながら写真を眺めていたら、きっと僕にとっての「好きな町ってどんな町か?」っていう判断基準だったり、色彩感覚や美的感覚だったり、果ては「どんな場所で子供を育てたいか?」とか「どんな場所で死にたいか?」なんていう根っこに近いところまでが、小さい頃から目の端っこのほうでなんとなく眺めていた景色に宿命的に左右されているような気がして、驚いたのです。

'10 09月20日 (月) 18時57分 : 無限大みたいなもの

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突然ですが、クイズです。上の写真に含まれる田んぼの中に、何粒のお米があるでしょうか?

そんなの分かるわけねーよ!って思ったアナタ!僕と一緒です。そんなの分かる訳ないですよね。最近は「地頭力」なんて言って、こういう訳の分からない問題に対しても推測で「およそ何粒か?」を言えるような思考力を鍛える動きもありますけど、実際のところ...「わかるわけねーよ!」って一言目に言ってくれる人とのほうが、おいしくお酒を飲めそうな気もします(笑)。

僕はカメラを構えてシャッターを押しただけなんですが、結果として写真の中には無限大にも似た膨大な数の米粒が写っている...なんか、フシギなものです。田んぼを眺めるだけで、僕らは数字の概念をあやふやにされてしまうんですから。

実のところ、僕らが一生かけて探求を続けたところで、この世界の中にはかならず「はかりしれないもの」が残るんだろうなって思うと、世界ってスゲェって素直に認められます。もっと言えば、この田んぼを造ったのは知らない誰かな訳で、その人もスゲェです。

大したものですよ、この世界。無限大みたいなものが、ゴロゴロしてますもん。

'10 09月19日 (日) 16時03分 : 秋のゲート

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あらかたの熱を奪い去ってしまった冷たい雨が止んでも、かすかに夏の残照が校庭の片隅に残っていたりして。少し動くと汗をかいてしまう一方で、半袖で冷たくなった二の腕を手のひらで温めたりもして。

夏と秋を隔てるゲートは、いつのまにか僕らの真上にあるようで。

浮かれてると夕暮れはあっというまに薄闇になるけれど、体はまだ夏を憶えていて、冷たいものがほしくなったり。水と塩と油が体の中で冬用にバランスを再構成しているのをじっくりと待ちながら、心だけは秋の切なさを先取りしていたり。

あと一月もせずに、こおろぎはトゲトゲの足で丸い殻の頭を撫でながら枯れ草の間を這い回り、すずむしはリリリと鳴くんだろうな。

...そろそろ宣言しようかな。秋のはじまりです。

'10 09月18日 (土) 14時27分 : 肯定する風景

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よく「田舎は手付かずの自然がいっぱいで良いねぇ」なんて言う人がいますけど、実はちょっと違うことを田舎の人は知っています。というのも、田舎は「手付かず」ではないんですね。田舎は手付かずではない...このことを広く世に知らしめたアニメが「おもひでぽろぽろ」です。山形の山間の農村を訪れた都会育ちの女性に対し、現地の青年はこう言います。

「都会の人は、森や林や水の流れなんか見て、すぐ自然だ自然だってありがたがるでしょ?でも...ま、山奥はともかく、田舎の景色ってヤツはみーんな人間が造ったものなんですよ
「人間が?」
「そう、百姓が」
(中略)
「田んぼや畑だけじゃないんです。みんなちゃーんと歴史があってね。どこそこの曾祖父さんが植えたとか拓いたとか、大昔から薪や落ち葉やキノコをとっていたとか」
「はぁー、そっか」
「人間が自然と戦ったり、自然から色んなものをもらって暮らしているうちに、うまいこと出来あがってきた景色なんですよ、これは」
「じゃ、人間がいなかったら、こんな景色にならなかった...」
「うん。百姓は絶えず自然からもい続けなきゃ生きていかれないでしょう。だから、自然にもね、ずーっと生きててもらえるように、百姓の方もいろいろやってきたんです。ま、自然と人間の共同作業っていうかな。うん。そんなのが多分田舎なんですよ」

上の写真は、古くから人間と自然が激しく戦いながらも美しい調和を勝ち取った、八戸市南郷区、島守盆地の光景です。必要な道と、必要な田畑と、必要な林と、必要な建物。人間と自然のバランス...そういったものが、この写真一枚からだけでも読み取れるように思います。

僕らが田舎に対して懐かしさや温かみを覚えるのは、決してありのままの自然に対してではなく、先人が整備した「自然にとっても人間にとっても居心地の良いバランス」に対してではないかと思うんです。そこでは僕らは自然破壊の罪悪感を感じる事は無いし、自然の恵みを手近に受け取れるという祝福も感じます。生きていて良いんだという肯定感と言っても良いのかもしれません。

煎じ詰めれば、食べ物やすべてのエンターテイメントも、すべてのコミュニケーションも、およそ人が欲するものの根底には「生きていて良いんだ」という肯定感がベースに流れているように感じます。

田舎には、それがあります。

'10 09月17日 (金) 21時32分 : 港町アルマゲドン

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テレビで大ヒット映画『アルマゲドン』をやってますけど、この映画の構造って、港町八戸で日々起きている出港と何ら変わりはないように思うんですよね。

  • たくましく勇敢な男たちが、命をかけて故郷を離れる。
  • 故郷から遠く離れた助けの呼べない場所で、命の危険にさらされる。
  • 大きなことを成し遂げて、帰還する。

映画『アルマゲドン』で泣く時、漁師や航海士の凛々しさと厳しい仕事を知っている港町八戸の人は、もしかすると少しだけ他の町の人よりもリアルに深く泣いているような気がします。

漁師や航海士は、地球を救うわけではありません。しかし、間違いなく命をかけているのです。港町八戸に吹く風は、常に命を質草に出さなければならない究極の厳しさをまとっているのです。

'10 09月16日 (木) 21時28分 : 一瞬で聞ける音楽

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書道の楽しみ方のひとつとして、書を演奏に例えることがあります。

音楽には「ドレミファソラシド」という音程のついた音がたくさん登場します。それぞれの音やその重なりあいを、僕らは楽しみます。また、音程をまとった無数の音は一定のタイミングで発音されますよね。そのリズムや流れを、僕らは楽しみます。音程とタイミングが工夫された音の群れを、時間をかけて聞く...3分の曲なら3分耳を傾けることで、作品全体を味わう。かなり乱暴ではありますが、それが音楽の楽しみ方だとシンプルにまとめることが出来ます。

それに習って、書の楽しみ方を考えてみます。

書の形や線の流れ方は、音程やタイミングだと解釈できます。個々の線の形や流れが、書という作品を構成しています。ただし、音楽と違うのは「作品全体が一瞬で把握できる」ということ。音楽は3分なら3分の時間をかけて味わいますが、書は見た瞬間に個々の音程やタイミングを把握できるわけです。ある意味、書は「一瞬で聞ける音楽」と例えられるかもしれません。

同じように一瞬で味わえるものが、町並みを眺める楽しみです。

何もずーっと町を見ている必要はありません。だって、その町の歩んできた歴史や、流れ過ぎていった時間を、見た瞬間に感じることが出来ますから。都会では見られなくなったペンキのカンバンも、何十年間の間に変化してきた様々な建築材料が混じり合った家々も、味わい深い作品だと言えるんじゃないでしょうか。

風と時間の取り分を失って、町は色あせていきます。でもそれは悲しい事ではありません。町という作品は、時間をかけてゆっくりと、完成度を増しているんですから。

'10 09月14日 (火) 20時42分 : 秋に実り、冬を許す

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許したり許さなかったり、許せなかったり許されなかったり、許すことを許せなかったり、許されないことを許したり。まあ人は忙しいものです。

そんな事はさておき、秋ですね。

理系的な感覚で考えれば、植物が一番実りそうなのは夏のような気もします。だって、気温だって降雨量だって、夏が一番ですから。でも、不思議なことに実りの季節は秋だと言われています。秋、徐々に日は陰り、朝晩は外套を着たくなるような日も徐々に出てきます。さわやかに高い空を見上げながらも、襟をしめて足早に街をゆく人々に比べると、秋に実をつける植物は少しノンキな気もします。

でも、そんな秋に実を付ける植物たちは、言い換えれば「秋から冬へと寒くなっていき、自分たちが育つことさえ許してくれない冬を許している」と言うことができないでしょうか。冷えていく世界に不平を一切言うこともなく、黙々と果実を熟させ、脱出ポッドとして大地に命を逃がしていく。何もかもを凍らせる風が吹く枝から、暗く温かく湿る土の中へ。世界の有り様を、あるがままに受け入れる。

たとえば「今年はもしかしたら、冬は無いんじゃないか?」なんて具合に、実をつけることをサボる木なんて、無いですもんね。植物はただただ冬を許すだけじゃなくて、しっかりマジメに冬というものを受け入れているようです。

...許したり許さなかったり、許せなかったり許されなかったり、許すことを許せなかったり、許されないことを許したり。まあ人は忙しいものです。でも、これからの僕は「許す」ことを大事にしていきたいと思うんです。

僕の一生のすべての冬を受け入れ許すことが出来たら、そこでやっと僕の次の誰かへと、春が渡っていくような気がするんです。

'10 09月13日 (月) 21時46分 : 枯葉と、高校生の頃の立ち止まらない僕

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自然に見とれてボーッとしてしまう幼稚園児だったことを、今となっては恥じていません。

でも、自然に見とれてボーッとしてしまう高校生だったことは、今でもまだちょっと恥ずかしいです。

僕の通っていた高校のそばの歩道には街路樹が植えられていて、この時期は紅葉がはじまるんです。学校帰り本屋さんに寄る時だけは街路樹を眺めながらしばらく歩くんですが、その美しさに目を奪われたのは何度あったことか、分からないぐらいです。水分が抜けて葉脈がくっきりと浮かび上がり、精巧な葉の凹凸に影が落ち、緑と赤のグラデーションとコントラストを見事に造り上げ、陽の光をまとって揺れている葉っぱを眺めるのは、もっぱら歩きながらでした。立ち止まるのはさすがに恥ずかしかったので、ゆっくりゆっくり歩きながら眺めていたものでした。

もう、立ち止まっちゃえば良かったのにな。

写真を撮るようになった今、時々人の目が恥ずかしくなるときはありますが、正直「恥ずかしいこと」と「見たいものを見ること」のどっちが大事で、どっちが僕の人生の価値になるかを考えれば、取り得る行動はひとつしかないのです。誰かに見られて恥ずかしいと感じる事は価値を産まないけれど、枯葉の美しさを感じることは価値を産むんですから。

そんな風にある意味で開き直ってしまった今の僕を見つけたら、高校生の頃の僕は「うわ、恥ずかしいな」とか思いながら目を合わせずに通りすぎるんだろうなぁ。そんな想像をしていたら、なぜか高校生の頃の僕がいとおしく思えてきました。今の僕なら、あの頃のツンツンした僕とも仲良くやれそうな気がします。

不思議なものです。

'10 09月12日 (日) 18時33分 : 乱暴にされるということは、適当にされるということ

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聞いた瞬間、ギクッとした言葉があります。発言者は女性です。

乱暴にされるということは、適当にされるということ。

言葉にせよ、態度にせよ、適当に済ませてしまうことは、乱暴するのと同じことだ...と、この言葉は言っています。僕は時々、コレをやってしまいます。疲れだったり、集中力の欠如だったり、慣れだったり。事なかれ主義と称してゆるーく行動していると、失敗したりケンカしたり。

別に男女関係のみならず、「上手くやろう」と考えていると、ついうっかりカンチガイしてしまったりします。何か「やりたいけど難しいこと」があって、最初こそ大変だけど、その後だんだん馴染んてきて、上手くできるようになっていく...ここまでは良いんです。でも、その先に「もっと上手くやれば、心のエネルギーを一切使わなくても上手くいくようになる」と甘い考えを持ってしまったりしませんか?

僕はこの甘い考えにいつの間にか至ってしまう事があることに、年をとってからやっと気付き始めた感があります。僕は気づかないうちに、効率や要領といった概念に毒されていたようです。そんな事に気付き始めていた僕の心に、ピシャリと気持ち良い平手打ちのような感覚で、先の言葉は響きました。

どんな事でも、心のエネルギーを一切使わずに成し遂げることは出来ない。

オトナになったからといって何の苦労も無しに何かを得られるほど、僕はデキた人間じゃないって自覚したら、心の足腰がしっかりと定まった気がします。僕はこの態度をしばらく続けようと思います。おそらくは、死ぬまで。

'10 09月10日 (金) 23時59分 : 素直に手のひらでプラスを受け取れること

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例えばおいしいお魚の刺身と日本酒で楽しんでいる時、僕は本気でトリップしてしまうことがあります。こんな言葉が、頭の中で渦巻いています。

ヤバイ、すごく美味しい。なんて俺は恵まれた存在なんだろう。俺って愛されてるんだなぁ、世界に。

ハイ、完全に酔っ払いのハイテンションです(汗)。この気持ちが想像できる人には、取るに足らない悦に入った酒飲みの戯言...なんですが、実は僕にとっては、感慨深いものがあるんです。なぜかというと、僕はきっと28、9歳の頃まで「俺だけが気分良くなって良いのか?」という不安を無意識に抱えてきた気がしていた」からなんです。

不思議なものです、昔の僕は余程の偏狭だったのか臆病だったのか、美味しいものを食べたり気分が良くなったりすると、こんな事を考えてしまっていたのです。

  • こんなに美味しいということは、高いんだろうなぁ...お金、もったいない使い方したかなぁ...
  • 家族にも食べさせてあげたいなぁ、俺だけ食べちゃって、申し訳ないなぁ...
  • これだけすごい価値がある食べ物だからこそ、「キレイなバラにはトゲがある」的なマイナスもあるのかなぁ...

ね、ダメ男でしょ(涙)。うじうじと考えてばかり。何故か昔の僕はプラスにはマイナスがくっついていると思い込んでいて、素直に喜ぶことが出来ていなかったような気がします。美味しい料理もお酒も、いただいたお給料も、友達との楽しい一時も、なぜかどこか冷めて見ていた部分があったように思います。

でも、今になって考えてみると、「プラスにはマイナスがくっついている」という考えは、逆に一面的かなぁと思うんです。純粋なプラスとか、純粋なマイナスとか、あったって良いじゃないかって今の僕は素直に思います。美味しいものは美味しいし、マズイものはマズイ...それだけのことです。もっと言えば、美味しいものにはマイナスの部分があるかもしれないけれど、「美味しい!」って感じる気持ちの部分で帳尻をあわせる必要は無いですもんね。

プラスをプラスと素直に受け取れなかった、昔の僕。なんというか、煎じ詰めると「愛され慣れてなかった」のかな、と今となっては思います。純粋なプラスの存在自体を信じられなくて、プラスを受け取ると不安になっていたんですね。困ったものです。僕は一体、何人の人の好意やこの世界の様々なプラスを、素直に受け取れなかったんだろう? なんて思うと、頭を抱えてしまいます。

けど、そんな昔の僕も、不器用でキライじゃないです。あいつの積み上げがあるからこそ、今の僕は目の前のプラスをそのまま手のひらで受け止めることが出来るようになったんじゃないかと、感じているからです。

今日の写真

今日の写真は、八戸中心部を流れる2本の川の北側、馬淵川の河口部に打ち捨てられたテトラポットです。...今日の記事の内容と全然関係無いじゃないか! って思われるアナタ! テトラポットに注目してください。大きなプラスの形をしています。

'10 09月09日 (木) 19時34分 : 空き地の四季と空き地の僕

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夏の間、暑さの中であっても、その美しさで目を楽しませてくれた草原も、そろそろ枯れていきますね。八戸のあちこちに散在する空き地にも、枯れ草の色が少しずつ見えるようになってきました。

僕は緑の草原がすごくすごくスキなので、正直不満です。なんで一年中茂っていてくれないんだろう? って心のなかでひっそりと文句を言ったりもしますけど、枯れていく草原自体はひとつも文句を言わないのに僕だけ文句タラタラなのも情けないので、ガマンすることにしています。

でもやっぱり、さみしいなぁ。

これだけ夏の青々とした草原に未練を残している僕ですが、枯れ草が広がる冬の空き地もスキです。溶けそびれた小さな雪の塊を踏みながら、冷たい北風をやりすごして冬の空き地を歩いていると、心と体の中にじんわりと温かい熱量が自発的に湧いてくるような感じがするんです。

アレはアレで良いなぁ。

いずれにせよ、僕の故郷・青森県八戸市にはまだまだ空き地がたくさんあるからこそ、僕はそれぞれの季節に応じた空き地の色合いを楽しむことが出来ます。...早春は土と若草の黄緑、春はたんぽぽの黄色、夏は緑、秋は枯れ色、冬は色が抜け押し黙る。捨てられた空き缶やプラスチックがアクセントになっている時もある。空き地自体がひとつの色彩の配置として完成している。...すごいもんです。

さて。都会にはそもそも空き地が無いし、あったとしてもなんだか警察に通報されてしまいそうで入りにくいんです。だから、田舎に行くと、こっそりではありますが、いそいそと空き地に入って写真を撮ります。空き地の真ん中に立っていると、普段社会的に生活している僕が無意識に頼っている肩書きのようなものが消えていって、裸ん坊になったような気がして、気持ち良いんですよ。

'10 09月08日 (水) 22時27分 : 晴れやかフェリーの覚悟

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今日、ちょっと大事な話を会社でしまして、ね。いやー、緊張しました。

なにはともあれ、船出です。

そんなこんなで、今日はちょっと呆けてますので、お写真のみの更新でご容赦いただければと。港町八戸を支える交通手段・フェリーの甲板です。何十台というトラックと、何百人という人を載せて、フェリーはしずしずと港に入り、港から出ていきます。落ち着き払ったかのように緩やかな動きではあるけれど、そこにかかっている責任の大きさたるや、ハンパではありません。見た目は穏やかなのに、腹の中にはギリギリとした覚悟が詰まっている。その対比が、より一層甲板の風景を晴れやかにしているように思えます。

毎日物も言わず、大きな責任を成し遂げ続けるフェリーを見ると、自然と襟が正されるんです。

'10 09月07日 (火) 20時57分 : シンプルに伸びていく

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植物が成長して伸びていく時、植物の脳のような場所から「この辺りで葉っぱを生やしなさい」と命令されて葉っぱを生やすわけではないんです。つるの先端で「そろそろ葉っぱを生やそうかな?」と独自に判断して生やしています。

言い換えると、植物には「全体としてこんなカタチになろう」というマクロの設計図は無くて、その都度その都度、先端のミクロな場所でカタチを決めてるんですね。例えば「前に葉っぱを生やしたところから遠くまで伸びてきたから、生やす」とか、「太陽光がよく当たるから、生やす」とか、そんな条件を参考にしながら「葉っぱ生やそー♪」と判断しているようです。

つまり、植物全体の美しさは、成長していく中での個別の小さな判断の積み重なりで形作られているんですね。

...人も同じかな、って思います。別に僕らは「こんな風になりたいから、1つ1つを実現していく」という計画的な成長も可能ではあるけれど、基本的にはその都度その都度の判断がその人の人となりや性格や現在のあり方を構成しているように思います。そして、その都度の判断は、きっとすごくシンプルなんじゃないかと予想します。

僕の中の、シンプルな法則とは何だろう? それを悟れるほどに、僕はデキた人間ではないけれど、きっとその法則は心の根っこのところにある「スキ・キライ」レベルなんじゃないかと思うんです。僕の未来は、僕が何をスキ・何をキライと感じるかにかかっているように思います。

上の写真は、港町八戸を支えた旧八戸漁連さんの建物を覆うツタです。シンプルで美しい流れるような姿に、僕は憧れすらします。

'10 09月05日 (日) 21時21分 : またあおう

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日本で唯一人が足を踏み入れることの出来るウミネコ繁殖地・蕪島にも、そろそろウミネコさんたちの姿がマバラにあってきました。ウミネコという鳥は渡り鳥であり、8月終わり〜9月初頭には大挙して南へと移動し、主に関東地方の港町で冬を越します。2月終わり〜3月頃には八戸へと戻ってきてくれるまで、温かい場所で過ごすわけです。

ですから、今の八戸にいるのは、残って冬を越すことを選択した少数派のウミネコさんたちです。あれだけたくさんのウミネコさんたちがいた蕪島も、今となってはまるで冬休み中の学校みたいにガラーンとしています。

でも、よくよく見ると、ウミネコさんたちのいた名残りを見つけることができます。例えば、ウミネコさんたちが日々繕い、羽ばたきこぼした小さな羽が、海辺に茂る小さな草原の一角にフンワリと残っていたりします。ウミネコさんたちが八戸という場所を繁殖地に選んでくれたからこその光景です。それを僕はうれしく思うし、来年また会おうねって心で呟いてみたりもします。

手を当てると、温かいんですよ。

'10 09月04日 (土) 19時19分 : ズレちゃった一日

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今日の僕は...

  • iPhoneの調子が悪くて、メールをリアルタイムに受信できない不具合で、人にイヤな思いをさせてしまった
  • 電車に乗ったら、ちょっと不思議な人に声をかけられてしまった
  • とある店の店員さんから、ケンモホロロにサービス精神皆無な事を言われてしまった
  • とある店の階段でものすごく具合が悪そうにしている人がいたから、声をかけようかどうか迷っていたら思いっきり睨まれて逃げられてしまった
  • 帰りの電車に乗ったら、隣の人の口がすごく臭かった

...という感じで、どうにもズレちゃってる一日だったんですが、さっき電話で話をしたら楽しい気持ちになりました。こんな僕の話を聞いてくれて、感謝。

何をやっても上手くいかない日って、ありますよね。そんな時は、もうどうしようもないと観念する事にしています。やれることを、少しでもやっておく。むしろ地道な作業を選んでやる。あまり動かない。新しいことを始めない。食べすぎない、飲みすぎない、お金を使わない。そういう風にしておくと、次の日をスムーズにはじめられるような気がします。

...なーんて偉そうなことを言ってますけど、さすがに帰り道はボロボロでしたけどね。家に着く直前に寄ったコンビニで、疲れた顔した女の子の店員がお釣りの1円玉ひとつを何故か僕に投げてよこした時は、どうしようかと思いました(涙)

あちこちに頭やら手足やらをガチンゴチンぶつけながらだけど、今日も僕はのんびり歩いております。そんなこんなで、ご心配なく!

今日の写真は、蕪島から望む夕日です。不揃いのフェンスも、あたたかな夕日の光を等しく浴びている...そんな様子です。

'10 09月02日 (木) 18時45分 : 地下鉄はどこから入れたのか? 八戸版

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「地下鉄はどこからいれたんでしょうね?」なんて冗談がありますが、上の写真の左の車、左は塀だし右は車だし、どうやって出すんでしょうか...

そんな事は放っておいて(きっと考えがあるのでしょうし)、今日はこちらの動画をご覧下さい。日体大の皆さんによる「集団行動」です。9分というちょっと長めの時間ですが...後悔しないと思いますよ!

'10 08月30日 (月) 23時26分 : 雲の屁理屈

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水玉の核を形成するチリの量だとか、温度だとか風の量とか向きとか...要素は色々ありますが、煎じ詰めて言えば、僕らが雲を眺めるというのは「空中の水滴の分布を見てる」と表現できます。水滴が少ないところは晴れに見えて、水滴が多いところには雲があるように見える。けど、飛行機で雲の中を突っ切るとよくわかりますが、雲の中って単純に視界が悪いだけで、霧の中のようです。

水滴が多いか少ないか、それだけの差で「晴れ空の青」と「雲の白」の違いが生まれます。

でも、繰り返しますけど、青と白...雲の有り無しの差は、あくまで相対的な水滴の量に由来します。どんなに晴れている空にだってどこかには(理論的に)水滴は存在するし、どれだけ厚い雲の中にだってたまたま水滴の無い空間は(理論的に)存在します。つまり、晴れ空という現象も、雲という現象も、中身は結局「水滴を微妙に含んだ空間」である事では共通してる訳です。

そういう視点で見てみると、1つ1つの雲は独立しているようで...実はつながっている、と言えます。僕らの目には「晴れ空の青」と「雲の白」とハッキリ違う色に見えていても、実は水滴の白が濃いか薄いかだけの差なんですから。

でもでも、やっぱり繰り返しますけど、僕らの目には青と白、くっきり違う色のように見えてしまいます。僕らの見ている雲はすべてつながっていると言えるのに、僕らの意識は違う色のように感じるわけです。

...え? いい加減理屈っぽくて聞いてられない?

スイマセン、その通りでございます。とにもかくにも今日の写真は、美しい八戸の海辺の空でございます。何が言いたかったかといいますと、散り散りの雲でも実はつながってるから寂しくないって思いながら写真を眺めると、感じるところがあるかもしれませんよ、ということなんでございます、ハイ。

'10 08月30日 (月) 00時05分 : 惜しまずの草原

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自然は魅力を出し惜しみしません。というか、そもそも「惜しむ」という概念がありません。「今日はちょっと青空の色をくすませてみようかしら」なんてイジワルなこと、空は思いません。ココロが無いから惜しむことも無い、と言えばニベも無いんですが、でも実はそれってスゲェ事でもあると思います。僕ら、ついつい何かしら小さなものを惜しむことが多いですからねー。

さて、ある人が言いました。

本当に魅力がある人は、魅力が知られることや知らしめることを惜しまない人だ。本当は自分には魅力があるけど惜しんで出していないとか、恥ずかしいから出していないとか、次のステップへ成長するために敢えて出さないとかいう人には、魅力なんて無い。
惜しまずに出すことは、魅力とほぼ同義だからだ。

ふむ。人を惹きつける魅力という掴み所のない能力は、実は「惜しまずに出す」ことによって裏打ちされている、という主張です。「惜しまずに出す」は、素直とか率直とか自然体といった表現に言い換えても良いかもしれません。

この主張は仮説の域を出ていません。しかし...僕は割とピンと来るんです、コレ。

なんというか、僕は人生を出し惜しみたくないんだと思います。僕自身の人生を出し惜しんでいたら、あっという間に終わってしまうように思うからです。すべての生命力を尽くして茂る草木でさえ枯れて死ぬというのに、もし僕が人生を惜しんでいたら、何もできないのではないか? なんて、思うんですね。

もし本当に、出し惜しみしないという姿勢が魅力を産むのだとしたら...自分自身から魅力が生まれる瞬間の感触を確かめることが出来たなら...よろこんでもらえるのなら。惜しまずに生きる草原に落ちる自分の影を見ながら、心のなかに芽生えた仮定形の願いたちが風に揺れるのを、感じたんです。

'10 08月27日 (金) 19時59分 : 横から風が吹く時は

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先日職場でiPadをいじってると、「成功者の失敗」みたいなテーマの本がpdf化されて入っていた。中を見ると、独立起業した人が遭遇する災難がズラリと書いてあって、ひやーオソロシイものじゃわい...と、アゴをスリスリしながら読み入ってしまいました。

まっすぐ前に力強く歩いていても、横風ひとつでグラついてしまうかもしれないのだな。

港町八戸の流通を支える八戸大橋を歩いていると、海からの横風が強く、前を向いて歩けないこともしばしば。でも、風に吹かれるままに目線を陸側に向けると、海に集った人々の作り上げた町並みが広がっています。新しい被写体を求めて前へ前へと進んでいく中で見落としていたやさしい風景に、横風によって気付かされるんですね。

横風が吹いた時は一旦立ち止まって目線を変えれば良いのではないか。そんな予想を、八戸大橋を歩きながら感じたんです。

'10 08月26日 (木) 21時03分 : 期待とは、あたたかい予想

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僕は小さい頃から、期待をコトバとして聞かされた記憶がほとんど無い。家族全員がシャイだったから(当時はそれにも気付かなかった)、期待に含まれている「実現しろよ、良いことしろよ!」という押し付け感を嫌っていたのかもしれない。食べ物の好き嫌いがあっても、靴ひもが結べなくても、クロールで25メートル泳げなくても、叱られたことさえあれど、期待された事が...無い。

これは良いことなのかなあ、よく分からないけれど。

唯一、酔っ払ったイトコのオジサンが、何か頭よさげなことをしたであろう僕に対して「末は博士か大臣かだな、ハハハ」と言ったのだけは憶えている。そもそも博士も大臣もよく分からなかったけど、悪い気分はしなかった。

でも、オトナになって色々な人の話を聞くと、案外「親から期待ばかりされて辛かった」という人が多くて、正直面食らってしまった。そんな人たちの感じたことをシンプルにまとめると、親からの期待が一種のイヤミのように聞こえたそうだ。「お前には出来ない事は分かってるけど、親の体裁があるからとりあえず『いつかは出来る』って言ってるだけさ、フン」なんて具合に解釈してしまうらしい。そのイラ立ちに、乱暴な態度を隠さずに自分の部屋に閉じこもってしまう事があったと、ある知人は言う。そんな記憶があるからこそ、今でも人から期待されるのはイヤだと、と。

うーむ。さすがにこれは、ちょっとさびしい感じもするけれど、受け取り方は人それぞれだから、仕方が無いのかもしれない。

僕は幸いなことに、期待されることをイヤミと感じることも無いし、今も誰かに期待されると、ワクワクしてしまう。僕にとっての期待は予想の一種みたいなもので、人から期待されても「お前には出来る可能性が十分にある」と言われているように聞こえる。期待とは、あたたかい予想のようなものだと感じる。

でも...世間では、期待をネガティブに受け取る人も多いようだ。となれば、これまでの僕はたくさんの人に期待を込めた発言をすることで、音も無しに傷つけてしまっていたのかもしれない。

車窓の夕暮れを眺めながら、そんな事を一人思う。僕がこれまで誰かを傷つけてきたことをすべて把握することは出来ないのと同じように、夕闇に紛れている色をすべて数え上げることができないだろうのに、それでも僕の目は夕闇の中を彷徨う。僕は僕自身に期待している、夕闇の色をすべて知る事は可能かもしれないと。

夕日はあくまでもあたたかいけれど、今にも消え入りそうだ。

'10 08月24日 (火) 23時04分 : 誰にでも出来る事

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写真は、対象から価値を見つけ出して切り出すことだと思うんです。

上の写真は、僕が撮ったものではありません。大きなカメラを持つのが初めて! というような子が撮影した夏のあじさいです。ふっくらと柔らかな雰囲気が、写真からにじみ出ています。それはまるですべてを許しているような咲きぶりに感じます。すべてを許すような感情はなかなか沸くものではありませんが、僕はこの写真からそんな感情を受け取ることができました。

価値を生み出すのは、誰にでも出来ることです。僕がカメラを手渡すのと同じように、何かしらのきっかけさえあれば、誰だって出来ます。それはカメラのような手触りのあるモノかもしれないし、コトバかもしれないし、ココロの中のきっかけかもしれません。でもとにかく、誰だって、価値を見つけ出すことは出来ると思います。

一見平凡な風景から、価値を見出す。それは決して、世界の見方を変えるだけではない、この世界の中にある価値が実際に増える行動だと思うんです。繰り返しになりますが、それは仮に抽象的に見方を変えるんじゃなく、本当に具体的に世界が変わるんです。

そしてそれは、やろうとした人なら、誰にでも出来ることなんです。

'10 08月23日 (月) 22時57分 : フォトグラファーズ・ハイ

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「ランナーズ・ハイ」もあるけれど、「ウォーカーズ・ハイ」もありますよね。歩く歩く→ヒーハー! っていう状況、ありますよね。

僕はカメラを抱えて八戸を練り歩くのが趣味なので、車で行く人たちに好奇の目を向けられることもあるんです(なんせ汗だくでデカイカメラ持って歩いてますからねー、興味を持つのも当たり前ってものです)。そりゃー、僕だって恥ずかしいと思うこともあるんですが...でも、ある時パチンとスイッチが入ると、人の目なんて一切気にならなくなるんです。自分自身の体重や重心の移動をスネとモモと腰に感じながら、目に見えるすべてのものに興味を向けられるような、自分自身がよく出来た撮影サイボーグになったかのような感覚が得られる時が...あるんです。

僕はそれを「ウォーカーズ・ハイ」の特殊版として「フォトグラファーズ・ハイ」と呼びたいと考えてます。実はこの瞬間が来たからといって写真の質が上がる訳ではないのですが(後でガッカリすることもしばしば)、撮影された写真という「結果」ではなく、撮影を楽しみながら歩くという「過程」自体が楽しくて、ついついまた撮影に出てしまいたくなるんです。

ついでに言えば「サイクリング・ハイ」もありますよね。自転車こぐこぐ→どうかしてるぜ! って状況です。

いずれにせよ、何かしら「歩く」という単調反復作業には、僕らの脳のスイッチを押すチカラが備わっているようです。歩くの、良いですよね。僕、八戸を歩くの、好きですよ。

(このエントリーの内容とブラックマヨネーズは、一切関係ありません。あしからず)

'10 08月22日 (日) 14時39分 : 日本一荒々しく携帯をチェックする若者

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名勝・種差海岸でのヒトコマです。

不肖・私がカメラを携えて歩いておりますと、波際の岩山にかの方の姿を見出したのでございます。この御方、金髪にハーフパンツのみという姿で、岩山のてっぺんで携帯をチェックしているのでございます。そのあまりの荒々しさに、私は身をかがませながら、思わずシャッターを切ったのでございます。

すげーなぁ。正直、ちょっとカッコ良かったもん。

'10 08月20日 (金) 22時39分 : 群れと群れが交わる光景

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蕪島に行くたびに「すげー大群だなぁ!群れてるなぁ、ウミネコ!」って思ってたんですが、よくよく考えてみたら僕らニンゲンも群れてますよね。蕪島のウミネコが約4万羽とも言われているのに対して、八戸市の人口は24万人ですもんね。

写真は、三隻の漁船の帰港に舞い上がるウミネコの群れです。

言わば、群れと群れが交わる光景です。

'10 08月19日 (木) 22時37分 : 草原と希望

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ロールプレイングゲーム、と言われるゲームのジャンルがあります。例えば「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」なんかが有名どころなんですが、仲間と一緒に冒険して、敵を倒し経験を積み、世界平和を脅かす巨悪と戦う...という感じのゲームです。比較的男の子が好んで遊ぶタイプのゲームなんですが、面白いことに、スタート地点となる町や土地はほとんど草原に囲まれています

どうしてでしょうか? それはきっと、ゲームのスタート=冒険の始まりでは、プレイヤーに希望を感じて欲しいからではないかと僕は考えています。家族がいて、美しい自然があって、守るべき土地としての故郷の意味や感慨をプレイヤーに感じて欲しいからこそ、スタート地点となる町や土地は、およそ青々とした草原に囲まれているように思うんです。スタート地点となる故郷が美しいからこそ、そこを離れる寂しさと冒険へ胸高鳴らせる希望が表裏一体になって、プレイヤーの心を包むのでしょう。

草原は、希望を象徴しているのかもしれません。

八戸は古くから競走馬の牧場が多く、古くは南北朝時代から現代まで、数多くの優駿を輩出してきました。そんな土地だからこそ、草原は八戸のアイコンの1つでもあります。多くの名馬がこの土地で生まれ、草を食んで体を造ったことでしょう。草原が希望を象徴しているのなら、草原で生まれ草を食べた名馬たちは、希望そのものかもしれないとすら思えます。

現代では僕らの足は馬から自動車へと変わりましたが、自動車に乗って草原を渡る時の気持ちになぜか希望が溢れるのも、うなずける話というものです。

'10 08月15日 (日) 13時23分 : バランスさえ生まれれば

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僕はかなり気分屋でだらしないところがあるんですが、人にはあまりそう言われません...逆に「いつもキチンとしてるっぽい、A型っぽい」と言われます。

そんなことないんですよ、実際。

きっと僕は、外にいる時と内(うち≒いえ)にいる時で、気持ちが切り替わってるんです。外にいる時の「キチンとしたふりの僕」も、内にいる時の「気分屋でだらしない僕」も、両方が間違いなく僕自身です。さらに言えば、外の僕も内の僕も、ずーっと続けるのはシンドイんです。今は外っぽく、飽きたら内っぽく...といった具合に、揺れながら暮らしているのが本当のところです。

つまり、僕という性格は画一的ではなく、四方八方に伸びている心のつるや花や実や葉っぱが微妙なバランスを取りながら、しかも風に揺られながら、全体として僕になっているように思います。

この世界にも僕自身の中にも風が吹いています。昼と夜という明るさの変化があって、四季という暑さ寒さの変化があって。仕事とプライベート、給料日前と後、健康と病気、お腹ペコペコとお腹いっぱい、欲求不満と満足、別れと出会い、新鮮さと飽き、眠い眠くない。そして、なんだか幸せだったり、なんだか幸せじゃなかったり。

この振動が止まるまで、僕らはきっと揺れ続けなければいけないのでしょう。

でもそれらは、あくまで「あっちからこっちへと繰り返し揺れている」ものです。あっちに行ってしまったと思っても、いつか戻ってくるものです。バランスの向こう側へと致命的に倒れてしまわないように、不恰好でもバランスを取りながら、時間を過ごしていかなくてはいけません。

苦笑いしながら、であっても。

'10 08月06日 (金) 11時16分 : みんなで同じ空を見る

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田舎の空って、やっぱり抜けてますよね。

八戸の中心街って、全貌が把握できるぐらいコンパクトにまとまってるからこそ、市民全員がこの風景とこの空を共有できてるんですよね。だから、きっと上の写真だって、誰もが見たことがある光景なんだよなーって思うと、ちょっとうれしいです。

商品企画を仕事にする者として、またサラリーマンとして、1つのテーマに関係する人々が同じコンセプトやイメージを共有していることの大事さを痛感しています。言葉にはできなくても、みんなの気持ちがひとつになれる景色や色合いがあることは、ひとりではなく家族や共同体で生きることを選択した人間にとって、本質的なことであるように思うんです。

'10 08月03日 (火) 09時07分 : 田舎の朝の考え事

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思う、考える、悩む、想像する、妄想する、耽る・・・サラリーマンとして都会で仕事している間、頭の中でいろいろとイメージを巡らせる作業は夜に行う頻度が高いことに思い当たりました。なぜなら、生まれ故郷・八戸でのんびりと日々を過ごしていると(それでも今回の帰省は割とバタバタしてるんですが)、その頻度が逆になるからです。

すなわち田舎での僕は、家のことや一日の準備を朝に済ませてしまって、朝から夕方まで動いたら、夜は何もせずのんびりしています。今日一日のことのみならず、明日のことまで今日の朝に考えてしまいます。そして、涼しい朝の間に色々やってしまいたくなるんですね。そうやって朝セカセカと動きながら考え、そのかわり夜はただボンヤリと虫の音でも聞きながら家族や友人と語らうだけ。夜はまったく生産的ではありません。

朝に生産して、夜に消費する生活。先んじて生産する生活を行うのは、実は非常に気が楽です。なんせ、先に生産してしまいますから。あとは、それを使いながらのんびり過ごしているだけで、次の日が来るんですから。昼間に消費したものを改めて生産しなければ寝られない夜よりも、作ったものを消費するだけの夜のほうが楽なのは、すごく簡単な理屈ですよね。

僕も良い年になって「毎日これぐらいは『結果』を残したい」と思うようになりました。残された日々を有意義に過ごしたいと思うわけです。その作業を朝に先取りして行なってしまうのと、夜にギリギリ終わらせるのとでは、どっちが楽か。田舎独特の「朝動いて、夜休む」生活リズムは、もしあなたが「『結果』を残したい」と思う人であればあるほど、有効にはたらくような気がします。

人間本来の生産と消費のスタイルは、上に挙げたような田舎の生活リズムであるような気がするんです。

'10 07月31日 (土) 08時34分 : 冷却装置としての東北

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個人的な感覚では、東北から北でしか「夜は涼しくなる」という基本的な原則は守られていないと思うんです。東京でも、北陸でも、関西でも、僕は「絶対に寝れない」クラスの熱帯夜を経験しましたけど、八戸のそれは「眠ければ寝れる」といった程度です。この時期、東京以西の方が聞くと驚くかもしれませんが、マジでクーラーは必要ありません。

「扇風機を付けると気持ち良いけど、お腹冷やしちゃうかな?」と逡巡するぐらいなんです。

したがって、東北以北ではクーラーは「贅沢品」としての性格を残しているし、東京以西でのクーラーは「生活必需品」としての立ち位置を確保しているわけですね。

世界は、昼には勝手に暑くなり、夜には勝手に冷める。そんなシンプルな原則を発揮できるのが東北の大きな魅力です。東北は夏の盛りであっても冷却装置としての性格を捨てることなく、毎日のサイクルを頑強に守り続けています。

ことに港町八戸にあっては、山と海はせめぎ合い、波は岸壁を打ち、夜は昼間のじりじりとした暑さと一緒に僕らの心と体から発生する過剰な熱量も吸い上げてくれます。まるで、熱量を発生させる太陽を「温める太陽」と呼ぶとすれば、それとは真逆の性質を持つ「冷える太陽」が浮かんでいるかのような、そんな夜を東北は毎晩迎え入れているように思えます。

'10 07月30日 (金) 00時06分 : 夏のセメント

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もはや八戸セメントさんの建造物は、八戸のランドマークですね。八戸が自らの力で築港できる能力を有している理由の一つはセメント工業が発達していることですし、極太のパイプが奇妙にねじくれた巨大建造物は否が応にも目を引きます。

上の写真はそんな八戸セメントさんの建造物を八戸大橋から見たもので、意外と見たことが無い方も多いかと思います。手前には小さな高台となっている館鼻の森が青々と茂り、鳥の群れが暑さを切り裂くように横切っていく。そんな中で、ただ黙々と作業をしているのかいないのか、じっくりと立ちすくんでいる八戸セメントさんの工場。港町であることの証明と誇りが、色づいた夏の光に照らされ輝いているようです。

セメントは、決して派手な素材ではないかもしれません。しかし、それは確かに港町というシステムの一部を成しています。港の光景を支配するコンクリートは、セメントを材料とします。その灰色は決してキラビヤカなものではありませんが、逆説的な形で港町の活気や美しさを象徴している存在なのかもしれません。

すなわち、コンクリートの静かな灰色があるからこそ、夏に輝く海の色が映えるんです。

'10 07月28日 (水) 22時00分 : 飛び出せ!(うみねこの)青春

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日本で唯一人が足を踏み入れて間近で生態を観察できるウミネコさんの繁殖地・蕪島では、地面がウミネコさんのフンでいっぱいです。大抵は白いフンで、健康で規則正しい生活をしている(であろう)ウミネコさんは白いウンチをします。この白いフンは服に付くと厄介ではありますが、さほどニオイもなく、ひっかけられても「あーもぅ!」ぐらいのリアクションで済みますので、ご安心下さい。

一方、時々...「大当たり」のフンをする奴がいるんですね。そのフンの色は「赤」。文字通り大当たりな感じがするそのフンは...非常にクサイ!おそらくウミネコさんなりにお腹を壊した時のフンではないかと勝手に想像しています。きっと不健康で乱れた生活をしている悪い子なのではないか。そのフンは見た目も悪いしニオイは強いし、ひっかけられると「あーもぅ!」「...」「...あぁー、もーっ!!」ぐらいのリアクションになります。カメラを提げて一人で怒っているヤツがいたら、「アイツ、当たったな...」と思って下さい、けっこうな確率で僕ですから。

ところで、そんなフンなんぞ関係ないと言わんばかりに、地面スレスレまでカメラを下ろして撮影したのが上の写真です。毛並みも美しい若い成鳥が、地面をスタスタ歩いたり(これがまた絵に書いたような「スタスタ」なんです)、ピョンピョン飛び回ったり、ケンカしたり鳴いたりしています。きっとコイツら、毎日健康的な白いフンをしてるんだろうなぁ...と思えるような、120%健康体の彼らが、少しだけうらやましく思えます。

...青春なんだなぁ。

かっぱえびせんにダッシュで突っ込んで来るウミネコさんたちの素直さは、少なからず僕らを癒す力があるように思うんです。それはまるで、僕らが子供や若者を見ている時に感じる希望のような感覚に似て、屁理屈無しに僕らの心に直接響いてくるような気がします。

'10 07月28日 (水) 00時23分 : 昼寝、海から3センチメートル

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八戸港では予想以上に珍しくない、岸壁で寝る人でございます。

館鼻岸壁は日曜日、夏の朝市は気温もグングン上がり、北国の早朝なのに汗をかく始末。そんな中、出店とお客さんが群がる区域の喧騒から離れた海のそばで、堂々と寝ているおじさん。微動だにしないおじさん。汗もかいてないおじさん。朝市なんてどこ吹く風なおじさん。海まであと3センチなおじさん。ちょっとだけ神々しい雰囲気すら漂う、おじさん。

...寝返り打ったらどうなるんだろうね、おじさん?

なんてヒドイ事は、誰も期待していない点にご留意下さい。

'10 07月27日 (火) 00時14分 : 暑さを消す

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暑いですねー。あまりの暑さに困りものの夏ですが、逆に考えると「涼しいのが一番気持ちいいのは夏」とも考えられるわけで。こんな屁理屈ではひとつも涼しくならないかもしれませんが...

とはいえ、暑さを耐えながら景色にじーっと目を凝らしていると、かすかに涼しさの気配を感じることが出来る時があります。それは、写真を撮っている時です。現実の世界の中にいる僕は気温を直接肌に感じることが出来ますが、ファインダーの中のもう一つの世界には温度がありません。カメラに映る世界は、ある意味で温度という概念が消えてしまっている視覚だけの世界だからです。

上の写真を撮影している時も、うだるような暑さに汗を吹きながら、濡れるTシャツの重さを感じながらの撮影でした。しかし、出来上がった写真からは、夏の青草のさわやかさにうずもれて静かに時を過ごしているサッカーゴールの穏やかさのようなものばかりが感じられて、すっかり温度は消えてしまっているような気がするんです。

温度を伝えたい写真もあるし、温度が消えてしまう写真もあります。そんな自由さを持つからこそ、撮影は楽しいのかもしれません。

'10 07月25日 (日) 22時29分 : 甲子園に行った話

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僕は一度甲子園に行った事があります。在校生応援で。

クラスのメンバー全員でゾロゾロゾロと甲子園のスタンドに入っていくんですが、まず驚いたのはその狭さ。甲子園=高校野球の殿堂=デカイ!と思い込んでいたからなのか、普通の広さで驚いてしまいました。考えてみれば、球場によって広さがコロコロ変わっていたら野球も出来ないって事ぐらいわかりそうなものなんですが、世間知らずだった高校生の僕はそれぐらいのぼせ上がっていたんですね。

結局チームは一回戦で関西勢にアッサリ完封されてしまったんですが、こんな舞台で野球をやってる事自体が尊敬できて、応援もやってるうちに熱を帯びてきて(僕の高校には独自の応援歌や踊りがたくさんあって、恥ずかしい部分もありましたが総じて楽しかったです)、カチ割り氷はおいしくて(本当にただの氷なんですね、アレ)、甲子園を満喫した夏でした。

野球に青春を賭ける。言葉で表現するとカンタンですが、それを実現するのは大変なことです。誰がメシを食わせてくれるのか、誰が洗濯してくれるのか、誰がお小遣いをくれるのか。他にやらなきゃいけない事は無いのか、心配事は無いのか、集中力が続くのか。そんなこと、当の高校生自身も分かってるんです。それでも、野球に青春の一時期を注ぎ込もうと決意して、失敗を恐れず進んでいく。

今年の夏の甲子園出場校青森県代表は、八戸工大一に決まりましたね。

未来も過去も現在も、すべてをかなぐり捨てて白球を追いかける高校生たちのひたむさに立ちはだかる、一度でも負けたら青森に帰れという甲子園の冷たいルールと、一切手を抜かない強豪校達。浮かんでくる顔...家族、友達、好きな女の子に胸で逆転を誓う劣勢も、逃げきりたいけどイヤな事が思い浮かぶリードの時もあるでしょう。そして最後には、スコアボードとサイレンは冷酷に結果を告げるでしょう。

勝ちだろうが、負けだろうが。

まるで夏が終わるかのように、避けようもなく結果はやってきます。そして彼らは、避けようもなく大人になっていきます。勝ちだろうが、負けだろうが、彼らは大人になっていくんですね。高校球児たちが一回り年下になってしまった僕は甲子園を眺めながら、そんな風に避けようもない運命を戦う若者たちを想います。僕は甲子園には出なかったけれど、それなりに大人になった者として、心の底から彼らを応援したいと思います。

'10 07月24日 (土) 20時52分 : 夕立を浴びる大人たち

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僕は何を隠そう、良い年の大人でありながら、夕立を浴びるのが大好きである。

夕立を浴びるのが好きになったのは、住宅街から山に近い実家へ引っ越した直後のこと。雨粒と雷鳴を聞きながら窓の外を見ると、いつもは平らな地面なのにクネクネと水流が曲がりながら流れていて、窓の外の手すりでは大きな雨粒が白くはじけている。

「浴びでくればいがべ(浴びてくれば良いじゃないか)」

と誰かに言われて(誰だかは憶えていないけれど、おそらく祖父だと思う)、Tシャツに短パンにビーチサンダルの姿で外に出た。はじめて服を着たまま雨を浴びると、なんかおしっこを漏らした時のような居心地の悪さと恥ずかしさを感じた。でも、そのまま空を見上げると、顔を打つぬるい雨粒が気持ちよくて、頭がクラクラするほど気持よかった。

すっかり雨が上がってしまうと、ずぶ濡れの服を脱ぎながら誰かに頭を拭いてもらう(おそらく祖母だと思う)。誰かが僕に笑いかけるのが聞こえる。

「雨浴びだすけ、風呂さ入らなくていいな(雨を浴びたから、風呂に入らなくても良い)」

...そんな少年時代の思い出を持つ僕は、当然のように雨を浴びたい大人になった。でも、あまり大人で雨を浴びている人はいないから、こっそりとチャンスを狙っている。大人になると、ポケットには携帯電話やらタバコやら財布やらが入っているし、カバンの中にはパソコン・デジカメ・本なんて濡れちゃいけないものがいっぱい。そんなのを放り投げて、ただ雨に打たれてみたいと思いながら、雨を眺めているのが僕です。

雨の日の喫茶店、ファインダーを覗くのも忘れて雨を眺めている男がいたら、それは僕かもしれません。

'10 07月23日 (金) 20時07分 : 破れた羽の軽さ(あるいは重さ)