
タモリがとある番組で「動作に心が宿ると作法になる」と言っていたけれど(名言だと思う)、信号待ちでふと横を見たら見つけた何の変哲もない木の枝ぶりに「作法」のような妙な調和を見つける時がある。木の枝はかすかにしか動いていない。わずかな風に葉の先端を頷かせているだけで、枝や幹は完全に静止しているように見える。ただ、その止まっている様子が、一種の作法というか、木自身と世界とを調和させる方法のように見えてくる。
きっと何の目論見も無くたまたまそんな枝ぶりになっただろうのに、その形しかあり得ないと思える。
やがて信号が青になり、数分後にはそんな感動を忘れてしまう頭の悪い僕だけど、たまたま僕がその時カメラを持っていたから上の写真を見ながら思い返すことが出来た訳で、そういった意味で昔の僕はよく頑張っているとも言える。写真は世界を切り取っているのではなく、僕を切り取っている。僕=世界、とすら言える。僕は景色を撮ろうとしているのではなく、その時の心の動きという動的(Dynamic)で不確定(Uncertain)な状態を何かに投影したいだけなのだろう。
...と、かなり自分に酔っているような文章を書いてみましたが。要は「僕は上の写真を好き」という事です。とっとと好きって言いなよ、俺。
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