
キクゾーがキクオーになった。息子にキクゾーを譲ったから。立派になったのだろう。でも、30代の僕の中ではキクゾーはいつまでたってもキクゾーだ(以下、キクゾーは林家木久扇のことを指す)。
落語に対して特段の情熱を持たない一般的な国民が唯一キクゾーを見ることが出来るテレビ番組「笑点」の中では、キクゾーは取りも直さず「バカ」というキャラクターが確立されている。わかりやす過ぎる駄洒落回答で司会者に先回って回答を指摘され、困ると妙な口調で問題を無視して笑いを取りに行く。キクゾーラーメンはまずいと揶揄される。そのうち「おい、黄色!」などと怒られる。そりゃそうだ、問題に対するウィットある回答もせず、逃げ回っているのだから。
キクゾーはバカだと、子供心に思った。
しかし、よくよく考えると、そんな子供の頃の僕の判断は、ちょっと間違っていたのかもしれないと思うようになったのは、最近だ。
- 例えば、笑点メンバーの中で、遊女の真似を最も好むのはキクゾーだ。コユウザが男性の荒っぽい犯罪者を好むのに対して、キクゾーは花魁(おいらん)を好むのだ。「あちきは〜」「〜でありんす」「遊んでいって、くんなまし」なんて、吉原そのものである。また、芸事に秀でた人間の真似を好むのもキクゾーである。
- 例えば、笑点メンバーの中で、「雨乞い師」「かっぱ」など、宗教的もしくは非科学的なテーマをよく採り上げるのはキクゾーだ。「アーホヤー!!」と両腕を上げて叫ぶキクゾーほど、奇妙なものはない。
- 例えば、笑点メンバーの中で、最も客をバカにするのはキクゾーだ。簡単すぎる答えを先回りして司会者に言われるのを通り越して、客に指摘されてしまったキクゾーは、事もあろうか客に対して「バカ!」と叫ぶのだ。
...もしかすると、キクゾーはこのメンバーの中で最もアナーキーなのかもしれない、と思う。ファンキーだ。日曜夕方家族団らんに花魁のような(分かる人には)ギクリとするテーマを事も無げに放り込み、雨乞い師の真似などという芸で混乱させ、あまつさえ客を罵倒する。
かつて芸事と神事が分離しきれていなかった頃、宗教・芸術・売春・乞食・ヤクザといった「直接的に富を生み出さない仕事」に従事する人間のことを半ば蔑称的に「河原者(かわらもの)」と言った。文字通り、そういった人たちは河原のそばに集まっていたのだ。時を経て、例えば歌舞伎のように立派に大成して河原を抜け出す者もいたし、河原に留まったものもいた。しかし、彼らの中には底流する「社会をバカにし、相対化し、混沌に近づけようとする文化」があった。社会的・建設的な生活をしている大多数の人間から「河原者」とバカにされるのを感じながら、「おまえらだって、皮をはがせば同じようなものじゃないか」と目の奥に静かな炎を宿していたのが、彼らだったのだ。
キクゾーは、自らをバカに貶めつつも、アナーキーなネタを毎週日本に投じ続けている。もしかすると、秩序に反抗的で混沌を良しとし、社会に変革や自由を要求する「河原者」の精神を最も受け継いでいるのは、キクゾーかもしれないと思うのだ。
「笑点」、そして今日の写真
ちなみに、「笑点」を企画し立ち上げた立川談志は、このタイトルに「笑いの焦点」という意味を込めたと言う。笑いのポイント、である。この番組は1966年に生まれたが、それから40年以上が経過した今、これほどコンセプチュアルでキリリと鋭いお笑い番組のタイトルを、僕は知らない。
今日の写真は、八戸のお隣・階上(はしかみ)町にある霊場・寺下観音を流れる小川に降り積もった桜の花びらです。情念的なピンクが水面を埋め、底光りすらしている光景は実に美しく、退廃的ですらあるように感じます。




