
第33回すばる文学賞を受賞した八戸市出身・木村友祐さんの小説「海猫ツリーハウス」について。以下物語に対する重大なネタバレを含みますので、イヤな人は下の「ここからはネタバレを含みません」という強調箇所まで読み飛ばしてください。
また、八戸出身の人・住んでいる人にはちょっと過激な表現を以下でしちゃってますので、その点もご容赦ください。
書評
突然田舎に帰ってきた兄「乱坊」は、演劇やら政治的な思想やら人生に対する考えかたやら、小賢しく頭でっかちな事をハンパな関西弁で声高に叫び、弟である主人公を苛立たせます。一方、主人公にバイト代を払い仕事を教え、乱暴ながらもあたたかな人格で包むは、ツリーハウス(木の上に作られた小屋)を作り続ける八戸弁丸出しの「親方」。
主人公は田舎で祖父の農作業を手伝いながら、服飾デザイナーを夢見ている男。前に踏み出せずにいる事を悩みながら、一方ではデザインもせず女遊びに精を出し、結局はヤキモキした気持ちを抱えながらハッキリしない日々を送る主人公は、「乱坊」と「親方」の間で翻弄されながら、どんな生き方を見つけるのか・・・そんな風に、控えめな紹介文をまとめるのなら、本作は青春小説、特に若者の悩みと自己実現の話だと言うことができます。
ここまで読まれた方は「あー、なんとなくだけど、兄「乱坊」とケンカしたりしながら、最後は親方みたいに自分のやりたいことをやるんだと決意するようになるんかな?」と思うかもしれません。しかし、本作はこういった前向きな話とはかけ離れた方向に進んでいきます。
乱暴と親方は、同類だったんですね。
きっかけは省くとして(おそらく推測は容易でしょう)、主人公が乱坊と親方に罵られるシーンがあります。二人は「認識が甘い」「今更無駄だ」「情が薄い」と罵ります。方言丸出しですから、それはもうリアルで残酷な言い方で、主人公は叩かれます。そこでポイントになるのが、乱坊の言葉。主人公を罵る言葉は、関西弁と八戸弁が混ざったものなんです。関西弁は兄が大学時代に身につけたもので、関西で生まれ育った人からすれば一笑に付されるほどの浅はかなものであり、東日本の人を苛立たせるには十二分な威力です。しかし、それにもまして八戸弁が、恐ろしいほどに醜悪なんですね。ここで筆者の木村さんは、ハンパな大阪弁も八戸弁も、本質的には何も違わない、と言っているのではないかと感じられます。主人公にすれば何で八戸出身の者が大阪弁を使うのかと腹立たしかった大阪弁と八戸弁が、同じぐらい、いやむしろ八戸弁のほうが腹立たしく響いたことでしょう。
主人公を見守ってくれていた親方も、作中のヒロイン的な存在である女性「原口さん」も、どんな美しい作品を作っていようとも一皮むいたら一緒。「乱坊←主人公→親方」という対立軸を脇から見守る原口さんという構図も、最後には「乱坊・親方・原口さん 対 主人公」となり、ひいては主人公すら彼らと同類であることが分かる。八戸という片田舎に住むニンゲン全員が、みな同類の醜悪で空虚な存在へと集約していくんですね。
このような、ややもすれば「田舎=ダメ」という構図を抜け出すために、この物語には脱出口がいくつかセットされています。充実して生きること・自己実現することの象徴としての服飾デザインと、主人公が見る自らが首から吊るされたヘリコプターの幻です。「生きること・服飾デザイン」が上方向に、「死」が下方向にセットされていて、横軸は物語開始時点では乱暴と親方が対立軸として存在していました。しかし、物語の最後には水平方向の軸は完全に圧縮され、上と下、生と死しか無い純粋だけどガランとした世界へと変貌していくことになります。生まれ故郷とか、家族関係とか、そんなことを越えて、ただ生きるか死ぬかの世界では、僕たちは不器用な海猫のひなと見分けがつかないぐらいに不安定で、何も知らず、でもだからこそ可能性がある。目の前には海と空と自分の手のひらしか無い、そんな場所にたどり着くことになるんですね。
そういった意味で、本作は実は特に八戸である必要も田舎である必要も無いように感じられます。ただし、それはあくまで一般的に・・・言い換えれば「八戸出身者以外の日本人全員」に対する言い方です。この物語が暗に示しているのは、どこに住んでいようがどんなコミュニティに属していようが、関係なく人はみな同様に空虚だという事であり、そんな主張が八戸弁で語られていることはすなわち「八戸に住んでいようがいまいが、空虚さは微塵も変わらない」事を示します。
自らで食べ物を作りながら田舎に住むことの大切さは、奇しくも乱坊が声高に叫んでいた理念のひとつでもあります。しかし、そんな理念にどれほどの意味があるのか、と作者は言っているように思われます。方言をテキスト化することで成功した、グロテスクで下らないニンゲンの群れの中で生きることは、どこに住んでいようが避けられないし、そもそも自分自身が空虚であることからは絶対に逃れられない。それが世界の有り様だとするなら・・・?
したがってこの作品は、外見の穏やかさ(田舎と都会という対立軸や、若者の青春譚といった側面)を入り口にしながらも、出口は生と死しかない場所へと連れて行く構造となっていて、中途半端な情緒的感情や退廃的なものをも排除していくプロセスが物語の骨を成しています。そして、物語の途中で断罪され振り落とされていくものの中には、間違いなく(田舎を好きな気持ちを持っている)僕たちも含まれています。
乱坊が偉そうに語る下らない理念と、田舎について語られる様々な理念は、物語が通り過ぎた後には、ついに同類として首から吊るされてしまいます。そんな世界で、僕(=あなた)はどう生きるのか? という問いを残したまま、物語は終わります。
おわりに
※ここからはネタバレを含みません
上記では色々と書いてしまいましたが、本作で最も話題になるであろう「方言をそのままテキストに落とし込んでいる文体」「方言に標準語のルビ」といった要素の詳細については一切触れませんでしたし、八戸をご存知の方なら知っている場所が度々登場する面白さもあります。このあたりを純粋に楽しむのも読み方のひとつです。この点は、太鼓判でしょう。上の書評を読んでいただいた方ならより真意が伝わると思うのですが、八戸に縁を持つ方であれば、この物語は面白いのみならず、大きく響くものがあることでしょう。
最後に、1コだけ小さなネタバレとも呼べない程度のネタバレをしてしまうんですが、作中に「したたて」という方言が出てきます。これには「だけど」というルビが振られているんですが、これって八戸の人はどれぐらい言いますかね? 僕は同じ意味で「したって」という表現はよく使っていた一方で、あまり「したたて」とは言わなかったような気がするので。八戸の中でも地域差があるのかな?
というわけで、八戸から出た作家・木村友祐さんのデビュー作「海猫ツリーハウス」についての書評でした。これから木村さんがどんな方向に向かっていくのか、楽しみに見守りたいと思います。
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