
先日「高橋真梨子の『ごめんね...」という歌の歌詞が腹立たしい」ということを日記に書いたら、どういうこと? というリアクションを受けたので、あらためて説明しようと思います。
まず1番のAメロを見ていきましょう。
好きだったの それなのに 貴方を傷つけた
ごめんねの言葉 涙で 云えないけど 少しここに居て
悪ふざけで 他の人 身を任せた夜に
一晩中 待ち続けた 貴方のすがた 目に浮かぶ
要はこの主人公の女性は浮気したわけで、それを後悔しています・・・という感情を歌詞に結晶させてるんですけど、上の話の順序を並び替えると見えてくるものがあります。
- 貴方を好きだったのに、傷つけた。
- 浮気して体の関係を持った。悪ふざけだった。
- 一晩中待っている貴方に申し訳が無い。
- 「ごめんね」の言葉が、涙で出てこないけれど、少しここに居てほしい。
強調箇所が、腹立たしいところである。悪ふざけとは何事か! 本当に傷つけたことを深く反省しているのか。しかも、泣いてることを言い訳にして謝罪の言葉も口にせず、挙句の果てには「少しここに居て」と要求までするのか。反省もなく、言葉にも出さず、あまつさえ男に依存さえする女の態度には、論理的に考えれば一片の同情の余地も無いはずだ。それが、サビになるとさらに強烈になる。
消えない過ちの 言い訳する前に
貴方に もっと 尽くせたはずね
連れて行って 別離(わかれ)のない国へ
言い訳の前にできることがあったはずだ、と考える態度は同情の余地があるが、その後がいただけない。「別れのない国へ連れていけ」とは何事か! だいたいそんな国は無いし、やっぱり最後の最後に要求してくるのか! お前は本当に反省しているのか、それとも頭がおかしくなったのかと訝ってしまうのも仕方がないと言うものである。
その後の歌詞も、結局この主人公の女性は以下のような要求をする。
- 『せめて今夜 眠るまで 私を抱きしめて』
- 『いつも我がままを 許してくれた場所まで 戻りたい』
浮気しといて抱きしめてだの、まだ我がままをさせてだの、この女性はどうかしている。いくら男がいい加減でも、浮気をされた女性を葛藤無しに抱きしめられるほど能天気ではないし、女性が自らを卑下した言い方かもしれないという部分を勘案しても「我がままを許して欲しい」と、今言うか、と。そして究極は、以下の一文であろう。
何処にあるの 悲しまない国
浮気するような良い年になっても「悲しみのない国はどこ?」と言う未成熟さが、彼女をして浮気に走らせるのである。もはやこの女性の考えは荒唐無稽であると断じられても相応だ。
結論としては、この歌の主人公の女性は身勝手に浮気をしておきながら、反省も謝罪もせずにさらなる要求を繰り返すという反社会性の塊であると言わざるを得ない。「もう浮気はしません」と言わずに「別れのない国へ連れていって欲しい」と現実逃避と責任転嫁を繰り返す女性は、もはや別れた方が正解である。この女性を断じて許してはならないのだ。
しかし、この曲がヒットしていることを、男性は忘れてはならない。女性は結束し、一切の譲歩せず、こういった反社会的恋愛価値観を男性に突きつける。そしてあまつさえ、「女心が分からないのね」などという無碍も無い一言で、男性を言いくるめようとするし、こういった非論理的で身勝手な主張に屈してしまう男性を「良いオ・ト・コ」なんて表現したりするのである。で、僕なんかはそんな女性に騙されてウッカリしちゃったりするのである。
そろそろ賢い読者の方ならお気づきであろうが、この記事は全体的に冗談であるので、本気で受け止めないでいただきたいことを最後に付け加えておく。
今日の写真
ちょっと時期はずれなんですが、夫婦で飛んでいるウミネコの写真です。撮影は6月、ウミネコは子育ての時期で、日本で唯一人が足を踏み入れられるウミネコ繁殖地である蕪島は圧倒的なほどの命と生の感覚に埋め尽くされます。ウミネコは夫婦で子育てするんですが、浮気なんてするんですかねぇ? なんて思ったので採用しました。ただ、上の写真で2匹ならんで飛んでるウミネコは両方何かを叫んでいて、まるで口汚く互いを罵っているようにも見えますね。人間もウミネコも一緒だなあ、と思うと滑稽です。今日の日記もまさしく「歌の歌詞に本気になっている俺の滑稽さ」みたいな部分を感じていただければと思います、重ね重ね、本気ではないのでご注意を(笑)
ただし、企画でご飯を食べている僕にすると、この歌詞は女性の考え方を探る上で非常に重要です。少なくとも男性である僕は、浮気を謝り反省しながら「別れのない国に、行きてぇなぁ・・・」なんて事、思い浮かびませんもの。
だからといって、僕は主人公の女性のような考え方を一面的に叩こうとは思わないんです。僕だって非論理的な考え方が心の底から突き上げてくることは日常生活の中でも数多くあります。そもそも僕らは論理的になんて動いていないことは、最近の行動経済学や文化人類学の成果が指し示しています。僕らって、この歌と同じぐらい非論理的なのだ、というところにスタートラインを引いた方が建設的であるとすら言えると考えているんです。
さらに言えば、歌詞のような場面で生じるどうしようもない気持ちって、僕にも上手く言葉に出来ないだろうし、きっと女性にも上手く表現できないんじゃないかと思うんです。歌詞の通り、涙ばかりが出て言葉になんて出来ない状況に陥るのが普通じゃないかな、と。そしてそんなグチャグチャになった感情をそのまま言葉に置き換えられたことが、この曲のヒットの一因であり、高橋真梨子の面目躍如ではないかと思ったりもするのです。
そのあたりをすべてひっくるめて理解しているからこそ、歌詞中で謝らなかったにも関わらず、曲のタイトルが「ごめんね...」なのではないかな、と。歌詞と曲名の矛盾こそが、僕らの心がもつ非論理性を如実に表しているように思うのです。
謝られると、男は弱いですしね。
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