
従兄弟だったか誰だったか・・・とにかく今は顔も名前も思い浮かばない中年の人が、僕が中学生の頃に「エロライター」を見せてくれた。一見すると普通のライターなんだけど、あっためると半裸の女性の艶やかな姿が浮かび上がるという寸法。僕のリアクションに喜んだその中年の人は、黒く太い親指でゴシゴシとライターをこすって暖めていた。
それから、これも僕が中学生の頃、友人の家でゲームをやって盛り上がっていたら、帰って来た友人の父親がエロトランプを見せてくれた。財布の中に3枚ほどだけ入っていたそのトランプには、裸の女性がバッチリと写っていた(ノーカット)。「すげべ?(すごいだろ?)」と友人の父親は顔をしわいっぱいにして笑っていた。
そんなエログッズの数々は、当時でこそ魅力的なものだったけれど、今となっては妙に切なさを醸し出すものがある。エロに対する一生懸命さというか、「オッサンになっても、エロからは逃れられない」感じが、妙に胸を突く。顔や肌から若さが消えていっているのに、心の奥には年を取った事を自覚できないエロのエネルギーが相変わらずくすぶっていて、僕らはその衝動にあらがいようも無く、何十年も女性をエッチな視線で見てしまうのだから、案外男の人生というのは救われないものがあるようにすら思う。
ただ、だからといってエロを否定するのは変な話だ。エロは僕らにとっては稀少な「心の内側から無尽蔵に湧いてくるエネルギー」だから。宿題だって、仕事だって、家事だって、運動だって、心の内側からエネルギーが勝手に湧いて来て取り組めるものではないもの。僕らの活動性の一部はエロによって担保されていて、エロがあるおかげで仕事やらお金稼ぎやらのモチベーションを補っていたりする。純粋な無から何かが増殖していくなんて世の中にはそうそう無い(というか、原理的に無い)けれど、心はそんな増殖原理をいくつか内包している。
ただ、それは心の中にあるからこそ画になるようなもので、心の外に出して形にしてしまうと途端に僕らの情けなさや切なさを象徴しはじめる。だからこそ、エロライターやエロジッポを眺めると、まるで僕自身の性欲を外から眺めているような気持ちになって、決してそれを馬鹿になど出来ない、それは僕の一部だ、と思うのだ。
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