
「ほぼ日刊イトイ新聞」で糸井重里が書いている「ダーリンコラム」最新回が非常に面白い。
「思い切る」という言葉を起点に、「なぜか人は『思い』を持ち続けることが自分を維持することだと思い込んでいないか?」と提言します。別に『思い』を持っていない瞬間だって僕は僕だし、あなたはあなただと、糸井さんは言います。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」以降、人は『思う』ことの恣意性に縛られていやしないか、と。
この話を読んで考えに浮かんだことがあるんですけども、かねてから「理性は非論理的だ」と思っていたんです。最近はヒューリスティックバイアスなんて言葉で表現されてますけど、人の考えはおよそ非論理的な思い込みが多いことが分かってきています。小難しいカタカナ言葉で言われると余計に「そんなことはない、俺はしっかりと考えてるぜ?」なんて否定したくなりますけども、まあ人の考えることなど思い込みばかりなんだから、気をつけろよ・・・なんて話が、行動経済学近辺から聞こえはじめ、去年から今年にかけて少しブームだったりもしたんです。
だからこそ、「理性は非論理的だ」と言えると思うんです。逆に、「本能は論理的だ」と言えるとすら僕は思ったりもします。死にたくない、食べたい、気持ちよくなりたい、眠たい、という目的のために無条件に体が動く瞬間を何十年も経験していると、どうにもカラダのほうが論理的で、僕の心なんていい加減で迷ってばかりで、ちっとも論理的じゃないと言えるんじゃないかなーって思うんです。
「理性は非論理的で、本能は論理的である」。僕らは理性の上で良いように考えたり言い訳したりして「自分は良いものだ」と思い込みながら暮らしているけれど、案外僕のカラダや本能の領域は「生きたい」という勝手な行動原理に忠実にロジカルに動いていて、そんなカラダや本能には良いも悪いも無い・・・さらに言えば、「生きてるだけでやらなきゃいけない事は、それ以外の事よりも大事だ」とすら思います。
『思い』は生きるのに必須じゃないので、時には『思い』を軽くあしらっても良いんじゃないかしら。
なんだか仏教みたいな話になってきましたけど、もう少し俗に言い換えると「くよくよするなよ、楽しくやろうぜ!(Don't worry, be happy!)」みたいな事です、ハイ。
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