
上の写真のジャケット、エッチぃですよね。iTunesストアではジャケットの写真が差し替えられているぐらいにエロい。さすがです、面影さん! というわけで、面影ラッキーホールの楽曲を解説するシリーズ「面影ラッキーホールを訊け」2回目の今回は、最新アルバム『Whydunit?』から、最低も最低、頭抱えてもんどり打ってしまう問題作『私が車椅子になっても』を掘り下げます。
『私が車椅子になっても』
さわやかなイントロ、そして一言目は『愛している 愛しているよね ダーリン』。ここまで訊くと、おや? なんだか面影さんに似合わないほどさわやかな純愛ソングではないかいな? なんて勘違いしてしまうかもしれません。しかし、この部分。歌詞カードでは、こうなっています。
愛している? 愛しているよね? ダーリン
・・・「?」がついてるんですね。途端に怖くなりますね。この言葉、女性から男性に向けた言葉なんですが、その後を訊けばもう、一発で面影さんの歌だと分かります。ザ・不幸。(歌詞そのままの引用は出来ないので元歌詞を加工修正しています)
愛している? 愛しているよね? ダーリン できなくなっても
離れないで? 離れないでね? ダーリン 車椅子になっても
『病める時も一緒』だよって、結婚式の時に神様に誓ったよね?
もうそんなに確認しないでくれよぅ!!と叫びたくなるような歌詞。これがサビだってんだからもう、面影さんヤリすぎですってば。上の不吉な歌詞の通り、新婚の二人をある不幸が襲います。スピード超過の大型トラックに奥さんを跳ね上げ、車椅子の生活が余儀なくされてしまうんです。新婚の二人はリハビリに励みますが、厳しい生活は結婚当初の幸せを見えにくいものにしてしまいます。そんな生活の中で、夫はついに人として(少なくとも社会を構成するマトモなオトナとして)絶対に言ってはいけないことを口に出してしまうんです。
夫が言った言葉。あまりにもひどいので、ここから先はヒドイ事を読んでも構わない人だけ読んでください。
以下、過激な表現を含みます。
苦情は受け付けません、辛い思いをしたくない方は申し訳ありませんがご退出下さい。
夫は、妻を診た医師にこう訊くんです。「先生・・・あの、その・・・」と口ごもりながら、最低だけどリアルな一言を、ついに口に出しました。
確認したいんですけども、正直なところ・・・性生活は可能ですか?
うわー最低! ああーもう! これだけでも最悪なのに、さらに男はとある人間と接触します。その男はやり手の弁護士。もうこれだけでウンザリしますが、男は弁護士にこう尋ねます。
確認したいんですけども・・・慰謝料無しで離婚は可能ですか?
ひでぇ。あまりにもひどい。こんな事をブログに書いてしまったら、僕の人格まで疑われてしまうんじゃないかというぐらいにヒドイ。しかし、この歌はあくまでポップで明るいアレンジで続いていきます。曲の最後は、やはりサビ。こんなヒドイ事を考えている男の気持ちを知ってしまった後では、この歌詞は強烈に切なく響きます。
愛している? 愛しているよね? ダーリン できなくなっても
離れないで? 離れないでね? ダーリン 車椅子になっても
『病める時も一緒』だよって、結婚式の時に神様に誓ったよね?
ああ、ああ!
あなたは本当に矛盾していないのか?
なんという無情、無常でしょう。事故に遭った女性は、あくまでも夫を信頼し、『愛しているよね?』と確認しているんですね。しかしこの物語に出てくる男はこの通りヒドイ奴ですから、もし愛しているよね? と尋ねられたのなら「今は愛していない」ということが言えてしまうかもしれません。しかし、しかし。ここで強烈に男の頭に突き刺さる一言は『病める時も一緒』と誓ったよね? という指摘です。二人は結婚式において、神に誓ったんですね。おそらく教会での結婚式でしょう、確かに皆の前で宣言したのでしょう。論理的に、病める時も一緒だと宣誓したこの世界においては、夫はこの妻から離れられない状況にいるわけです。
もし僕なら、もしあなたなら? 実際にこんな状況になったら、どう思うでしょう。事故の後の生活が本当に苦しくて、逃げ出したい気持ちが産まれてしまっていると仮定して、僕やあなたは妻に対してどう答えるのでしょう? そして、僕の人格を疑われる心配も辞さずに言うなら・・・もしかしたら僕やあなたの中のダメ人間な部分が「神の前で誓ったって言っても、結婚式の形式的なことだろ?」なんて言い出しはしないでしょうか? ここまで来れば、もう救いなんて有りやしません。ダメの極北です。
ここまで考えた上で、僕は改めて「ああ、この歌の物語が作り物で良かった」と心の底から安心するんです。僕は神に誓って女性を置いて逃げることなんてしないと、論理的に100%確実に約束できるだろうか? と自分に問い詰めるほど、作り話であることが身に染みてありがたい。
・・・避けられない不幸と、辛さを目の前にしてダメさを露呈する男と、それでも男を信じようとする女。「よね?」を付けて確認してしまう人間の性。そんな物語から、僕やあなたの胸元に突き立てられる「本当に、本当にお前は逃げ出さずにいられるか!?」というナイフ。頭の中の論理的な思考と、感情的なダメさの矛盾の間に生きるのが僕らだとすれば、その矛盾を抱えた人間の姿をここまでクッキリと浮き彫りにした曲は無いでしょう。
ところで・・・上の記事を読みながら、こんな風に感じられた方はいらっしゃいませんか?
「こんな悲惨な話、誰も好んで読みはしないわ!」
うむ、確かに、と思います。実は僕も書きながら感じていたことでもあるんですが・・・でも世の中には、悲惨な話ばかり書いてあるのに、人間の欲望・怠惰といったネガティブな本質ばかり書いてあるのに、めちゃくちゃ売れている本があります。それも、ギネスブックに載る「世界で最も読まれた書物」・・・聖書です。嫉妬、裏切り、無知、暴力。数々のネガティブな人間の本質が書き連ねられたこの物語は、キリスト教という宗教が成り立つための礎として宗教の世界観を作り上げつつも、生身のリアルな人間の行動についてつぶさに記録された「人間の鏡」のような物語になっているように思います。人間の本質を描こうとすれば、ネガティブな要素は避けられないと逆説的に言えるのかもしれません。
今回とりあげた面影ラッキーホールの曲では、交通事故で重傷を負った妻に対し、下品な欲望や打算の感情を持ってしまった夫の心情が語られます。世間一般ではタブーではあるかもしれないけれど、だからといって「悪いものは悪い」と思考停止するのではなく、「本当に自分はそんなネガティブな考えを持たずにいられるか?」と自分に関係ある問題だと捉えられるかどうかのほうが大事だと僕は思います。
それは求道的でストイックで、宗教的といっても過言ではない、自らに究極の問いを突きつける行為です。まともにやったら、尋常な辛さではないですね。しかし、面影ラッキーホールは「歌」というメディアを選びました。文学や映画のように、あくまで物語として提示し、かつ音楽に乗せました。数分間のメロディに乗せ、あまつさえ踊りさえしながら聴かせてくれるこの物語は、不謹慎・アンダーグラウンドであると同時に、聖書と同じような手段でリアルに心に響きます。僕らは単純に音楽に酔いしれても良いし、物語を深く読み込んで心に何かを感じても構いません。
このバンドを、いかにも若者に好まれそうな不謹慎な話ばかり叫び散らしている奴らだと思いこむのは、半分は正しいかもしれないけど、めちゃくちゃ重要な方のもう半分を取り逃しているように、僕には思われます。もちろん、楽しみ方としては「サブカル的な雰囲気だけ、ノリだけ」でも良いとは思うんですけどね。
好評・不評がパックリ割れているこのシリーズ、次回は救いの無さでは面影ラッキーホールの楽曲群の中でも頭ひとつ抜けている『俺のせいで甲子園に行けなかった』をご紹介します。またもや、タイトルだけで、もう、もう・・・(涙)




