
ここ数日ネットを賑わせた、ハムスター速報2ログさんの「崖の上のポニョが神過ぎた件」の読みどころは2つあります。
1つは当然、このスレッドでの>>1さんの批評について。中沢新一がメインなのかな?と思わせる神話学・民俗学を軸にした解釈で、読み物として面白いと感じます。
もう1つの読みどころは、コメント欄に散見される根本的な批判。ざっくりまとめると、「こんなの、こじつけだ」と「こんな小難しい事考えながら映画見るなんて不幸だ」の2つの批判が見られます。
「こんなの、こじつけだ」
当然、批評とはこじつけの行為です。批評とは、「こんな感じにこじつけると、別の意味が読み取れたり、作品全体の構造が推測できたりして、楽しいですね!』というものなのに、こじつけ自体を否定してしまっているんですね。もったいない。
そういう人には、例えば「あなた嫌いな人がいるでしょ? なんでその人の事を、あなたは嫌いなんだろう。世の中で、『あの人は嫌われることが正しい』と保証してる物はある?」と聞いてみたい。所詮世界は「その人が理解した世界」でしかないわけで、人間は当たり前のようにこじつけをしながら生きているわけです。
こういう人は、「正しい」とか「客観的」とかいう概念を、非常にうがって理解していると言えるでしょう。それは世界のダイナミズムとか柔軟性を見えにくくして、狭くて生きにくい世界の理解をしているような気がして、逆に心配になってしまいます。
「こんな難しい事考えながら見てるなんて、不幸だ」
僕に限って言えば、小説や映画や音楽などを鑑賞してる時は、基本的に何も考えずに見ます。で、見た後、もしくは2回目以降見た時に小難しい事を考えます。つまり、見方が二つあるわけですね。楽しむ見方と、考える見方。この2つの見方を身につけると、さらに2つの方法論を研ぎすませて、「楽しむ時は楽しむ、考える時は考える」と差別化できるので、1つの見方しか出来なかった時に比べて逆に涙もろくなったり大笑いしたり、たっぷり楽しむことが出来たりもします。
つまり、批評の楽しさを知ることで、映画の見方・楽しみ方が増えるわけです。
「正しい」とは何か
上記2つの批判の他に、こんな書き込みがあります。「なんでもかんでも神話で理解するのは無理がある」。
これは書いている本人が意識できてるかどうかは分かりませんが、これは正しい主張だと思います。物語の理解をするのに利用できるツールは神話だけではありませんね。一般に○○学と言われるものはすべてOKですし、そうじゃなくても「物語のこの部分は○○に似てるね」とさえ言えれば、そこから批評を展開していけます。
さて、全体を通してコメントに言えることは「正しい事を保証する何かをみんなほしがってる」ということですね。論理的に「A→B,B→CよってA→C」ぐらいの保証が欲しいようです。そうでなければ正しくないのだと。しかし、さっきも書いたように、この世界に正しい事なんてほぼありません。すべての学問は公理(仮定)の上に成り立ちます。
それから、僕やあなたの存在が正しい事を証明するものはありません。もしあるとしたら、それはあなたが「僕の存在が正しい事を証明してくれているな、これは」と思い込んでいる・こじつけているに過ぎません。
だからこそ、物事から意味を見いだして、感覚として、論理として理解する行為は人間にとって重要になります。ちょっと不公平でも良いから、世界に、自分に、意味を見いだすべきなのです。親が子供を愛するのも、学校で学問を教えるのも、「世界を理解しろ、しかも『お前は生きるべきだ』と理解しろ」というのが根っこにある目的なんですね。親は子供に「世界は良いものだ、お前は良い子だ、お前は愛されている、自信と希望を持て」と教えますし、学問は「世界はこういう成り立ちだ、成り立ちが分かっていれば、世界は怖くないし、自分で変えられると思えるだろう?」と教えるわけです。
ここまで考えて来ると、宮崎駿が「神経症の世の中に」と言った事も、やっと繋がって来ます。客観的な正しさに振り回されて狭苦しい世の中に、不公平だけど自分と世界を肯定してほしいと宮崎駿は考えているのではないでしょうか。
それは、(僕はまだ見ていませんが)論理ではなくスペクタクルや感覚がドライブする物語という形だったり、ポニョの天衣無縫な行動だったり、海の持つイメージであったり、様々な位相で表現されているんじゃないかな、と予想します。
だからこそ、批評も正しさを求めずに、好き勝手思いついた事を言ったら良いんじゃないかな? と、僕は思います。
批判をしている人は、どうやら若い人が多いけれど
ここでもう少しだけ補足すると、ここまで考えて来たような「批評批判」をしているのは、若い人が多いようです。「ゆとりは黙れ」なんて可哀想な事を言われていたりもします。
でも、単純に「最近の若い者はブツクサ・・・」と考えてはいけないと思います。ただでさえ、客観的・論理的な正しさが厳しく追及される世の中になっている今、最も試行の柔軟性が高く、自分を確立するための内的思考が頻繁に行われている若い世代の人たちが最も時代の影響を受けやすいのは明白です。そんな若い世代の人たち他の世代から眺めると、変化が早くて疎ましく感じられる場合があるために、頻繁に「最近の若い者は・・・」という批判が生まれます。
若い世代の人たちには、だからこそ、批評の楽しさを理解してもらいたい! と、僕は切に願います。
ただでさえ、神話やら民俗学やらは「こじつけ・決めつけ」の学問なのに---例えば「猫は女性原理の象徴である」なんて言われても困りますよね。神話学なんてこんなのの固まりです---これだけ世の中で「法的に・客観的に・論理的に正しいこと」が重要視されていると、文学や映画の批評なんて訳の分からない無駄なものに見えても仕方ないのかもしれないですよね。
でも、ちょっと見方を変えると、批評とはつまり「自分の感じ方を人に伝えるための方法」なんですよ。自分がどう感じたのか? をそのまま言葉にすることは難しいから、色々な別の現象に例えて説明しているだけ、なんです。
世界の瑣末な事なんか無視して、主観的で構わないから、いろんな批評が出て来てほしいなあ、と思います。
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